――貧困ビジネスと行政の責任放棄を問う――
貧困ビジネスという言葉は、貧しい人々を相手にする商売一般を指すのではない。生活困窮者を貧困から抜け出させることなく、むしろその状態を固定し、継続的な利益の源泉にする事業をいう。
その典型が、生活保護制度と結びついた「囲い込み」である。
住まいを失った人に宿泊場所を提供し、生活保護を申請させる。ここまでは支援に見える。しかし、その後、家賃、食費、管理費、支援費などが差し引かれ、本人の手元にはわずかな金額しか残らない。通帳や現金の管理まで事業者に委ねられ、転居を希望しても簡単には出られない。支援であるはずの場所が、人を逃がさない仕組みに変わるのである。
2017年、さいたま地方裁判所は、生活保護費の全額を受け取りながら最低生活水準に満たないサービスしか提供しなかった施設について、契約を公序良俗に反して無効とし、損害賠償を命じた。困窮者からどれほど徴収しても、「住まわせてやっている」と言えば許されるわけではない。司法が示したのは当然の原則である。
ところが、この問題を悪徳業者だけの責任にしてしまえば、肝心な部分を見落とす。
厚生労働省の資料によると、2022年4月時点で無料低額宿泊所は全国649か所、入居者は1万8,152人だった。さらに、2018年7月末時点の詳細調査では、入居者1万7,067人のうち1万5,457人、約9割が生活保護利用者であり、57.2%が福祉事務所からの紹介によって入居していた。しかも、3年以上入居している人は39.1%に達していた。一時的な居所であるはずの施設が、少なくない人にとって事実上の長期居住先になっていたことが分かる。
もちろん、これは2018年当時の詳細調査であり、現在の全施設の状況をそのまま表す数字ではない。それでも、福祉事務所と民間施設との関係がどのように形成されてきたかを知るうえで、軽視できない資料である。
住居を失った人が福祉事務所を訪れる。行政には、その日のうちに泊まれる場所を確保しなければならない事情がある。しかし、公営住宅にも民間賃貸住宅にもすぐ入れない。結局、職員は空きのある民間施設を紹介する。その後の生活状況、金銭管理、転居の意思まで十分に確認できなければ、生活保護費を原資とする家賃や食費、利用料だけが事業者へ流れ続ける。
ここに、貧困ビジネスが存続する土壌がある。
私は、現場のケースワーカー個人だけを責めるべきではないと思う。担当世帯が多く、緊急の宿泊先も乏しいなかで、ほかに選択肢がないまま施設を紹介している職員もいるだろう。問われるべきは、そのような応急処置に頼らなければならない状態を長年放置してきた、国と自治体の住宅政策であり、福祉制度の設計である。
また、無料低額宿泊所のすべてを悪質と決めつけるのも誤りだ。行き場のない人を受け入れ、医療や福祉へつなぎ、地域生活への移行を地道に支えている施設もある。だからこそ、誠実な支援と搾取的な事業を同列に扱ってはならない。前者を公的に支え、後者を確実に排除する仕組みが必要である。
国は2020年に設備と運営の最低基準を整え、2025年4月からは無届や虚偽の届出に30万円以下の罰金を科す制度を導入した。改正住宅セーフティネット法も2025年10月に施行され、住宅政策と福祉政策を連携させる方向は示されている。
だが、届出をさせ、基準を守らせれば、それで十分なのだろうか。
施設の壁や居室の広さだけを調べても、人が自分の意思で退去できるか、手元に自由に使えるお金が残っているか、苦情を申し立てたことで不利益を受けないかまでは分からない。政府も国会審議において、著しく劣悪な住環境や、居住以外のサービスを強要する行為が確認された場合には、福祉事務所が転居を支援すると説明している。
必要なのは、施設を監督することだけではない。そもそも施設にとどまり続けなくてもよい社会をつくることである。
公営住宅や民間の空き家を活用し、まず安定した住まいを確保する。家賃補助を拡充する。施設には抜き打ち監査を行い、徴収額と会計を公開させる。金銭管理は本人の同意を原則とし、第三者が検証できるようにする。施設から独立した苦情申立て窓口も欠かせない。そして、行政が施設を紹介した以上、その責任は入居させた時点で終わるのではなく、本人が再び自分の生活を選べるようになるまで続くはずである。
聖書は、貧しい人に施しをするよう教えるだけではない。預言者アモスは、「貧しい者を銀で買い、乏しい者を履物一足の値で買う」社会を告発した。イエスも、「最も小さい者の一人」にしたことは、御自身にしたことだと語られた。
私がこの問題を看過できないのは、生活保護費の使われ方だけが理由ではない。一人の人間が、住む場所を選び、自分のお金を管理し、ここを出たいと意思表示する力まで奪われるからである。
キリスト教が守ろうとするのは、困窮者をただ生存させることではない。その人が神の像を帯びた主体として生きる自由である。人を保護費の運搬者として囲い込み、一つの「収益物件」のように扱うことは、その尊厳に対する冒瀆と言わなければならない。
善きサマリア人の物語も、倒れた人をどこかへ運べば終わり、という話ではない。傷を手当てし、安全な場所へ運び、その後に必要となる費用にまで責任を負う物語である。
貧困ビジネスを生むのは、困窮した人の弱さではない。住まいと権利を保障できない社会の弱さである。
行政が代わりとなる住まいを整備せず、紹介後の生活実態も確かめないなら、行政は被害の傍観者ではいられない。意図していなくても、搾取を存続させる構造の一部になってしまうのである。
