聖霊降臨後第17主日 説教草稿「恵みは、計算を超えて」

【教会暦】
聖霊降臨後第17主日(特定20) 2026年9月20日 A年

【聖書日課】
旧約 ヨナ書 3:10-4:11
使徒書 フィリピの信徒への手紙 1:21-28
福音書 マタイによる福音書 20:1-16

【本文】

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「それは不公平ではないか」。今日の福音書を読んで、そう感じる人は少なくないでしょう。朝早くからぶどう園で働いた人にも、夕方になってほんのわずかな時間しか働かなかった人にも、主人は同じ1デナリオンを支払った。朝から汗を流してきた人が不満を口にするのは、無理もありません。むしろ私たちの社会常識からすれば、彼らの言い分のほうが正しいようにも思えます。働いた時間が違えば賃金も違う。それが公平というものです。

ところがイエスは、その常識をわざと揺さぶられます。

このたとえを、勤労倫理や賃金制度についての教えとして読めば、どこかおかしくなります。イエスが語っておられるのは労働契約のモデルではありません。「天の国は次のようにたとえられる」と始まっているからです。ここで問われているのは、神の国における恵みとは何か、ということです。

主人は夜明けに出かけ、9時ごろにも、12時ごろにも、3時ごろにも人を雇います。そして5時ごろ、つまり仕事の終わりが迫ったころにも広場へ出て行く。そこで主人は、まだ立っている人々に尋ねます。「なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか」。彼らは答えます。「誰も雇ってくれないのです」。

この一言を読み落としてはいけないと思います。

彼らは怠けていたとは書かれていません。「誰も雇ってくれなかった」のです。体が弱かったのかもしれない。年を取っていたのかもしれない。仕事に不慣れだったのかもしれません。理由は分かりません。ただ確かなことは、彼らは選ばれなかったということです。そして選ばれないまま夕方を迎えようとしていました。

その人々を主人は見つけます。

ここに神の国の姿があります。人間の社会が「役に立つ人」を先に選び、「価値が低い」と見なした人を後ろへ追いやるとき、神は、その後ろに残された人のところまで出かけて行かれる。そして1デナリオンを渡されます。それは当時の労働者とその家族が、その日を生きるための賃金でした。主人は彼らに、働いた時間に比例した報酬ではなく、生きるために必要なものを与えたのです。

だから朝から働いた人への主人の言葉は厳しい。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。

今日のヨナ書にも、よく似た場面があります。ニネベの人々が悪の道を離れたのを見て、神は災いを下すことを思い直されます。ところがヨナは喜びません。怒ります。敵であるニネベが赦されたからです。

ヨナは神の正義を求めているようでいて、実は神の憐れみに限界を設けようとしています。「あの人々まで赦すのですか」と。

すると神は、とうごまを用いてヨナに問いかけられます。あなたは自分が育てたわけでもない植物を惜しんでいる。それならば、「わたしがこの大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」。

ヨナ書は、この問いへのヨナの返事を書かないまま終わります。妙な終わり方です。しかし、それでよいのでしょう。なぜなら答えるのはヨナではなく、この物語を読む私たちだからです。

私たちは、神に愛していただきたい。しかし時として、神が「あの人」まで愛されることには抵抗を覚えます。自分が赦されることは恵みと呼びながら、他人が赦されると不公平と呼ぶ。人間というものは、実に巧妙に恵みを帳簿へ変えてしまいます。

教会も、その誘惑と無縁ではありません。長く教会に仕えてきた人、最近来た人。信仰について多くを知っている人、ほとんど知らない人。社会的に評価される人、そうでない人。多数派に属する人、少数者として生きる人。私たちは気づかないうちに、神の食卓に座る資格まで計り始めることがあります。

しかし聖餐の食卓には、上座も下座もありません。

私たちは功績によって招かれているのではないからです。聖餐において差し出されるキリストの体は、信仰歴の長い者には大きく、短い者には小さく分けられるわけではありません。皆が同じ恵みから命をいただきます。公同の教会とは、まさにその事実を目に見えるかたちで証しする共同体です。

だから、この福音は単純な「平等」の話より、さらに深いところへ私たちを連れて行きます。神は人間を、成果によってではなく、その存在そのものにおいて大切にされるということです。効率や生産性によって人間の価値を測る社会では、これはかなり危険な福音です。病む人も、老いる人も、障害を負う人も、仕事を失った人も、社会の周縁へ押しやられた人も、神の前では決して「余った人」にはならないからです。

パウロも今日、「あなたがたは、ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と語ります。福音にふさわしく生きるとは、神の恵みを自分だけのものとして抱え込むことではありません。神が惜しまれるものを、私たちも惜しむことです。神が探しに行かれる人を、私たちも探しに行くことです。

夕方5時の広場には、今も人が立っています。

誰からも声をかけられなかった人。自分には価値がないと思わされている人。社会から「もう遅い」と言われた人。その人のところへ、ぶどう園の主人はなお出かけて行かれます。そして言われるのです。「あなたもぶどう園へ行きなさい」。

「最後の者が先になり、先の者が最後になる」。

これは、先に来た者を罰して後から来た者を優遇するという、新しい序列の宣言ではありません。そもそも神の国では、私たちが握りしめている順位表そのものが意味を失う、という福音なのではないでしょうか。

私たちは皆、どこかで夕方5時に拾われた者です。自分の力だけでここまで来た人は、1人もいません。誰もが赦され、支えられ、名を呼ばれ、今日まで生かされてきました。

ならば主の民よ、恵みを数えることをやめましょう。

「あの人より私は多く働いた」と比べるのではなく、「あの人も生きることができて、よかった」と喜ぶ者になりたいのです。ニネベを惜しまれる神と共に、この世界を惜しみたい。夕暮れの広場へ何度でも出て行かれるキリストと共に、取り残された人を探したい。そして聖餐の食卓から送り出される私たち自身が、誰一人余りものにしない神の国のしるしとなりたいのです。

神の恵みは、私たちの計算より大きい。

その大きさに戸惑いながら、それでも喜んで身を委ねるところから、福音にふさわしい新しい共同体が始まります。

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