「外国人」を隣人として見るということ――永住許可厳格化と排外主義をキリスト教はどう考えるか

日本の外国人政策はいま、大きな転換点にある。永住許可をめぐる要件の厳格化や、永住資格取消しを含む制度整備が進められるなかで、外国人を「管理すべき対象」として見る視線も、社会の一部で強まっている。

国家が在留制度を設け、一定の要件を定めること自体は当然である。キリスト教も、法や社会秩序そのものを否定しない。

しかし、そこで問わなければならない。

その秩序は、人間の尊厳を守るための秩序なのか。それとも、人間を選別するための秩序へ変わりつつあるのか。

ここに、この問題の倫理的核心がある。

外国人を治安、財政負担、社会保障、労働力といった政策上のカテゴリーだけで捉えると、その人が実際に生きている生活が見えなくなる。日本で働き、税や保険料を納め、子どもを育て、隣人と関係を築き、長い年月をかけて生活の根を張ってきた人々がいる。

永住とは、単なる「長期滞在の資格」ではない。

そこには仕事があり、家族があり、友情があり、地域との関係がある。したがって永住資格をめぐる制度は、行政上の資格管理であると同時に、人間が築いてきた生活そのものを国家がどのように扱うのかという倫理の問題でもある。

キリスト教の人間理解からすれば、人間の尊厳は国籍によって与えられるものではない。

聖書が人間を「神のかたち」に造られた存在として語るとき、その尊厳には、日本人も外国人もない。旧約聖書が繰り返し寄留者を虐げてはならないと命じ、イエスが「善きサマリア人」の譬えにおいて「誰が私の隣人なのか」という問いを、「あなたは誰の隣人になるのか」という問いへ反転させた意味も、そこにある。

だからキリスト教が問うべきなのは、「外国人にも規則を守らせるべきか」という程度の問題ではない。

当然、すべての人は法のもとに置かれる。不正や重大な法令違反には、公正な手続きによる対応が必要である。

しかし、それと排外主義とはまったく別の問題である。

一部の違反や事件を外国人一般の属性へ拡張し、「外国人は危険だ」「外国人にはより厳しくてよい」と考え始めるなら、法の問題はいつの間にか偏見の問題に変質する。

排外主義の本当の危険は、露骨な憎悪表現だけにあるのではない。

むしろ、

「まず日本人を優先するのは当然だ」

「外国人なのだから多少不利でも仕方がない」

という、ごく穏当にも聞こえる言葉のなかに、人間の尊厳の序列が静かにつくられていくことにある。

キリスト教は、その序列を認めることができない。

国家には国境を管理する責任がある。しかし教会には、その国境のこちら側と向こう側にいる者を、等しく神の前に立つ人間として見る責任がある。

この二つを混同してはならない。

キリスト教が国家に求めるのは、国境をなくすことではない。政策判断を放棄することでもない。

求めるべきなのは、比例性、公正な手続き、個別事情への配慮、そして何より人間の尊厳を政策目的の下位に置かないことである。

「秩序ある社会」と「排除する社会」は同じではない。

むしろ本当に成熟した社会とは、秩序を保ちながら、それでも弱い立場に置かれた人の尊厳を守ることのできる社会ではないか。

そして教会もまた問われる。

外国人を「支援する対象」として迎えるだけで十分なのか。それとも、同じ食卓につき、同じ礼拝をささげ、同じ地域社会をつくる仲間として迎えるのか。

これは慈善の問題を超えている。

共生とは、強い側が弱い側に場所を貸してあげることではない。互いが同じ社会の構成員として生きることである。

だから、現在の外国人政策をめぐってキリスト教が語るべき言葉は、無条件の受け入れでも、無条件の厳格化でもない。

秩序は必要である。

しかし、秩序のために人間を小さくしてはならない。

社会が「誰を外に置くか」を語り始めたとき、教会は「誰と共に生きるのか」を語らなければならない。

外国人政策とは、実は外国人だけの問題ではない。

それは、日本社会がこれからどのような共同体になるのかという問いである。違いを危険として遠ざける社会なのか。それとも違いを抱えながら、なお共に生きる社会なのか。

そしてキリスト教にとって、その問いの前に立ったとき、最後に残る基準はかなり単純である。

隣人を選別し始めたところで、隣人愛は終わる。

聖霊降臨後第14主日(特定17) 説教草稿 「失うことを恐れない自由」

【教会暦】
聖霊降臨後第14主日(特定17) 2026年8月30日 A年

【聖書日課】
旧約 エレミヤ書 15:15-21
使徒書 ローマの信徒への手紙 12:1-8
福音書 マタイによる福音書 16:21-27

【本 文】

今日の福音書は、先週の日課の直後から始まっています。ペトロは主イエスに向かって、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。そして主から祝福され、教会の礎となる使命を与えられました。ところが、その直後です。主イエスが、ご自分はエルサレムへ行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして復活すると語られると、ペトロはそれを受け入れることができませんでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と諫め始めます。

その気持ちは、私たちにもよく分かります。愛する人には苦しんでほしくない。信じる方には勝利してほしい。ましてメシアであるなら、敵を退け、正義を実現し、人々から尊敬される存在であってほしい。ペトロが思い描いた救い主は、おそらくそのような姿でした。しかし主イエスは、彼に厳しい言葉を向けられます。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。

ペトロが悪人だったからではありません。むしろ善意だったのでしょう。しかし、善意であっても、神の道を妨げることがあります。苦しみを避け、失敗を避け、傷つくことを避け、安全なところにとどまろうとする。その発想が、いつしか福音そのものを小さくしてしまうことがあるのです。

主イエスは続けて言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」。この言葉は、長い間、ときに誤って用いられてきました。苦しい境遇に置かれた人に、「それがあなたの十字架なのだから我慢しなさい」と言うために使われることさえありました。しかし主イエスは、虐待や差別や不正義に耐え続けよと教えておられるのではありません。十字架とは、理不尽な苦痛を美化する言葉ではないのです。

主イエスが負われた十字架は、神の愛に忠実であろうとした結果として負わされた十字架でした。貧しい人を顧み、病む人に触れ、罪人と呼ばれた人々と食卓を囲み、権力によって排除された人の尊厳を回復しようとされた。その生き方を曲げなかったからこそ、十字架に至ったのです。ですから「自分の十字架を負う」とは、苦しみそのものを求めることではありません。愛を捨てないこと、正義を諦めないこと、人間の尊厳を守るために必要な代価から逃げないことです。

今日の旧約日課のエレミヤも、まさにその苦しみの中にいます。彼は神の言葉を語ったために孤立し、傷つき、神に向かって激しい言葉さえ投げかけます。「なぜ、私の痛みは絶えることがなく、傷は重く、癒えないのですか」。これは立派に整えられた祈りではありません。むしろ、信仰者の呻きです。しかし聖書は、その呻きを消しません。神の民の祈りとは、美しい言葉だけでできているのではないからです。

神はエレミヤに、「あなたが立ち帰るなら、わたしはあなたを再び立たせる」と語られます。そして、「彼らがあなたのもとに帰るのであって、あなたが彼らのもとに帰るのではない」と言われます。周囲に合わせることで自分を守るのではなく、神から託された言葉に立ち続けよ、という招きです。そこには孤独があります。しかし同時に、「わたしはあなたと共にいて、あなたを救い出す」という約束があります。

パウロもまた、今日のローマ書で同じ方向を示します。「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」。これは、自分を傷つけよという意味ではありません。自分の存在そのものを、神の愛のために用いなさいということです。さらにパウロは、「この世に倣ってはなりません」と語ります。

私たちが生きる社会は、絶えず人の価値を測ろうとします。どれだけ稼げるか。どれだけ役に立つか。どれだけ多くの人に認められるか。どれだけ強い立場にいるか。国籍、性別、職業、健康状態、年齢、学歴、財産。人間は驚くほど多くの尺度を作り、その尺度で互いを順位づけしてきました。しかし福音は、人の尊厳をそのような尺度から解放します。

パウロは、私たちは「一つの体に多くの部分を持っている」と語ります。そして、それぞれに異なる賜物があると言います。誰もが同じである必要はない。むしろ違うからこそ、公同の教会は一つの体となるのです。声の大きい者だけが教会なのではありません。力のある者、健康な者、知識のある者だけが主の民なのでもありません。弱さを抱えている人も、迷っている人も、社会の周縁に置かれている人も、神の前ではかけがえのない一人です。

「自分を捨てる」という主イエスの言葉も、この光の中で聞かなければなりません。自分の人格や尊厳を捨てることではありません。捨てるべきなのは、自分だけを守ろうとする生き方です。自分の利益、自分の正しさ、自分の安全だけを最優先にする心です。自分を守るためなら、他者が傷ついても仕方がない。そのような世界の論理から自由になることです。

主イエスは言われます。「自分の命を救おうとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る」。これは不思議な逆説です。しかし福音の核心には、いつもこの逆説があります。握りしめる手には、新しいものを受け取る余地がありません。自分を守ることだけに生きるなら、いつの間にか私たちは、生きることそのものを失ってしまう。しかし愛するために手を開くとき、そこに思いがけない命が始まります。

聖餐において、私たちはその命にあずかります。主はご自分を裂き、ご自分を与えられました。それは自己否定ではなく、愛の完成でした。そして私たちもまた、そのパンを受け、杯にあずかり、再び世界へ遣わされます。

私たちに求められているのは、大きな英雄になることではありません。今日、隣人を見捨てないこと。差別の言葉に同調しないこと。弱い立場の人の声に耳を傾けること。争いの中で平和を選ぶこと。自分とは異なる人を排除せず、共に生きる道を探すこと。その一つ一つが、主の十字架を負って歩むことにつながっています。

十字架の道は、命を捨てる道ではありません。本当の命を取り戻す道です。私たちが何かを失うことを恐れず、愛のために自分を開くとき、そこには復活の光がすでに差し込んでいます。

主の民よ、私たちも今日、もう一度その道へ招かれています。自分だけを守る世界から、互いに生かし合う神の国へ。恐れによって閉ざす手を開き、与えられた賜物を携えて、それぞれの場所へ歩み出しましょう。

その道の先で、十字架につけられ、復活された主が、すでに私たちを待っておられます。

父と子と聖霊のみ名によって。

アーメン。

外国人を「負担」として扱う国でよいのか――在留手数料大幅引き上げをキリスト教はどう考えるか

高市政権は8月25日、外国人の在留資格変更・更新などに伴う手数料を、10月1日から大幅に引き上げる政令を閣議決定した。

現在、在留資格変更・期間更新は窓口で6,000円だが、新制度では許可される期間によって3万3,000円から7万5,000円となる。1年なら3万3,000円、3年以上5年未満なら6万4,000円、5年以上なら7万5,000円である。そして永住許可は、現在の1万円から20万円になる。20倍である。

これは「物価上昇に伴う料金改定」という説明で済む規模ではない。

そもそも今回成立した改正法は、変更・更新手数料の法定上限を従来の1万円から10万円へ、永住許可については30万円へ引き上げた。政府自身、国会答弁で審査実費を変更・更新で約1万円、永住許可で約2万円と試算している。それにもかかわらず、「外国人の出入国及び在留の公正な管理」に要する費用などを加え、外国人一人当たり年間約2万円という行政コストまで「受益者負担」として組み込んだ。

ここには、見過ごしてはならない思想の転換がある。

外国人が日本社会で合法的に生活することを、単なる行政サービスの「受益」とみなし、その管理コストを本人に負担させる。だが彼らは客ではない。働き、消費し、税を納め、社会保険料を払い、地域社会を支えている生活者である。

2025年末の在留外国人数は約413万人に達した。2022年末からわずか3年で約100万人増えている。政府はこの増加を管理費増大の理由に挙げる。

しかし、数字を反対側から見る必要がある。

東京新聞が報じるように、外国人労働者はすでに介護、物流、製造、建設、農業など、日本人の日常生活を支える不可欠な存在になっている。記事に登場する千葉県の社会福祉法人では、四つの高齢者施設でフィリピン、ベトナムなど4カ国78人の外国人が働き、介護職員のおよそ3分の1を占めている。外国人の負担を増やせば、その影響は企業や介護施設を経由し、結局、日本人の生活にも戻ってくる。記事が「ブーメラン」と表現する所以である。

さらに深刻なのは、制度の値段だけではない。

4月の国会審議では、この法案がわずかな審議期間のなかで進められ、外国籍市民へのヒアリングも行われなかったとして、国会前で抗議が起きた。「手数料が払えないばかりに『不法滞在』化する恐れがある」との懸念も表明された。

政府は生活困窮者への減額制度も設けた。しかし対象は限定的で、難民申請者についても保護費の受給などが条件となり、大半が対象外になる可能性が指摘されている。

ここでキリスト教は沈黙できない。

聖書は、人間を国籍によって価値づけない。

「寄留者を虐げてはならない」という旧約の命令は、古代イスラエルの特殊な福祉政策ではない。自分たち自身もかつて寄留者であったという記憶から、権力を持つ側に自己抑制を求める倫理である。

そしてイエスは、善きサマリア人の譬えによって「誰が私の隣人なのか」という問いを壊した。隣人とは、こちらが資格審査をして選ぶ人ではない。境界の向こうに置かれた者に対して、自分から隣人になる。それが福音の論理である。

だから、この問題についてキリスト教が問うべきなのは、

「外国人も費用を負担すべきではないか」

という表面的な議論だけではない。

問うべきなのは、国家が一つの集団だけを取り出し、その人々の生活の基礎となる法的地位を維持するために、これほど急激な経済的負担を課すことは正義なのかということである。

もちろん、国家には出入国を管理する権限がある。不正には対応すべきであり、法秩序は必要である。

しかし、法秩序と排除は同じではない。

管理の必要性を理由に、外国人だけに一般行政コストまで負担させることには、慎重な検証が必要である。とりわけ、日本で生活基盤を築いている在留資格保持者に対し、更新のたびに、1年なら3万3,000円、3年以上5年未満なら6万4,000円、5年以上なら7万5,000円もの負担を課すことが、制度目的に照らして本当に合理的かつ相当なのか。そこには、厳格な比例性の検証が求められる。

私は、この一連の政策に見られる高市政権の「外国人を管理し、選別し、より多く負担させる」ことへの執着は、異常な域に達していると考える。

外国人を優遇せよと言っているのではない。

人間を、人間として扱えと言っているのである。

永住許可とはホテルの会員資格ではない。そこには十年、二十年と積み上げてきた仕事があり、家庭があり、子どもの学校があり、友人があり、地域での生活がある。その法的安定を「高額な行政サービス」として売るような発想には、私は同意できない。

さらに言えば、少子高齢化と労働力不足の日本が、一方では外国人に働いてもらいながら、他方では彼らに「ここで暮らし続けるなら、もっと払え」と迫る。その矛盾はあまりにも大きい。

これは外国人だけの問題ではない。

国家が、弱い立場にある少数者に対してなら、どこまで負担を転嫁してよいのかという問題である。

今日それが外国人なら、明日は別の少数者かもしれない。

キリスト教は、国家が国境を持つことを否定しない。しかし、国家が国境を人間の価値の境界に変えるとき、教会は異議を申し立てなければならない。

私は、この大幅な手数料引き上げに反対する。

そして日本の教会、キリスト者にも、これは「政治の話だから」と距離を置かず、声を上げてほしいと思う。

外国人の隣人と話すこと。困難を抱える人を支援すること。制度の問題を知ること。そして、人間の尊厳を損なう政策には、穏やかであっても明確に「否」と言うこと。

それは政治的党派性ではない。

福音が公共の世界で人間の尊厳を守ろうとするなら、当然に伴う責任である。

社会が「外国人にもっと負担させよ」と言うとき、教会まで同じ言葉を繰り返してどうするのか。

私たちが告げるべきなのは、別の言葉である。

あなたは負担ではない。
あなたは、この社会で共に生きる隣人である。

そして、その隣人を制度によって追い詰める政策に対しては、私たちは反対する。

祈るだけではなく、声を上げる。

それもまた、隣人愛の一つのかたちである。

聖霊降臨後第13主日(特定16) 説教草稿「扉を閉ざす鍵、開く鍵」

【教会暦】
聖霊降臨後第13主日(特定16) 2026年8月23日 A年

【聖書日課】
旧約 イザヤ書 51:1-6
使徒書 ローマの信徒への手紙 11:33-36
福音書 マタイによる福音書 16:13-20

【本 文】

「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。主イエスは弟子たちに、そう尋ねられました。弟子たちは世間の評判を並べます。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の1人だ、と。しかし主はそこで問いを変えられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。

この短い問いには、不思議なほどの重さがあります。世間がどう言っているかではない。多数派がどう考えているかでもない。教会が昔から何と言ってきたかを暗唱すれば済むのでもありません。「あなたがたは」と問われるのです。私たちはこの方を、いったい何者として生きているのか。それが今日の福音の問いです。

ペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」。すると主は、この告白を祝福し、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われます。

ここで注意したいことがあります。イエスは、ペトロが何でも正しく理解できる人間だったから教会を委ねられたのではありません。この直後、ペトロは十字架へ向かうイエスを思いとどまらせようとして、厳しく叱責されます。さらに受難の夜には、主を3度も知らないと言うことになります。つまり教会は、間違わない人間の上に建てられたのではない。弱く、迷い、時には逃げ出してしまう人間が、それでも「あなたこそキリストです」と告白する、その場所に建てられるのです。

これは教会にとって、かなり大切なことです。教会は「正しい人々の城」ではありません。完全な信仰を持つ者だけが入れる安全地帯でもない。傷ついた者、疑う者、失敗した者、社会から名前ではなく属性で呼ばれてしまった者が、それでもキリストの前に集まり、共に福音を告白するところです。公同の教会とは、同じ種類の人間を集める場所ではなく、神によって異なる者たちが1つの食卓へ招かれる出来事なのです。

主は続いてペトロに「天の国の鍵」を与えると言われます。鍵とは、恐ろしいものでもあります。鍵を持つ者は扉を開けることも、閉ざすこともできるからです。

教会は長い歴史の中で、この鍵をしばしば「閉めるため」に使ってきました。あなたは正統ではない。あなたはふさわしくない。あなたの性、あなたの家族の形、あなたの出自、あなたの国籍、あなたの生き方では中へ入れない。そう言って、神が開いておられるかもしれない扉を、人間の側から閉ざしてしまったことがあります。

しかし、キリストから託された鍵は、本来、神の国を私物化する鍵ではありません。それは人を解き放つための鍵です。罪責に閉じ込められた人を赦しへ、孤独に閉じ込められた人を交わりへ、絶望に閉じ込められた人を希望へと招く鍵なのではないでしょうか。

いま世界では、人間を「こちら側」と「あちら側」に分ける言葉が再び強くなっています。国境の向こう側にいる人、異なる民族に属する人、異なる宗教を持つ人を、まず1人の人間として見るのではなく、安全保障、負担、数字、脅威といった言葉で見る誘惑があります。戦争が長期化する中で、ウクライナでは今なお市民や子どもたちが命を奪われ、ガザでも停戦後なお医療と生活の基盤が深刻に損なわれています。 私たちはいつの間にか、その苦しみにさえ慣れ始めています。

しかし福音は、人間を数字に変えることを拒みます。

今日のイザヤは言います。「あなたがたが切り出された岩に目を注げ」。自分の起源を思い出せ、というのです。私たちは自分で自分を造ったのではありません。国籍も、能力も、財産も、社会的地位も、私たちの存在の根拠ではない。私たちは皆、同じ創造の神から命を受けた者です。そしてイザヤはさらに、天は煙のように消え、地は衣のように朽ちるが、「わたしの救いはとこしえに続く」と語ります。

国家も制度も市場も、永遠ではありません。今日、絶対に見える境界線も永遠ではない。しかし神の救いは残る。だから教会は、その時代の「当たり前」を絶対化してはいけないのです。

パウロも今日、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と叫びます。これは思考停止の言葉ではありません。むしろ、人間は神を所有できないという告白です。神は私たちの教義より大きく、私たちの制度より大きく、教会そのものよりも大きい。だから信仰とは、神を小さな箱へ閉じ込めることではなく、自分の理解を越えて働かれる神の御業に驚き続けることなのです。

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。

もし私たちが、「あなたは生ける神の子です」と答えるなら、その告白には責任が伴います。キリストが主であるなら、国家も民族も市場も世論も、究極の主ではありません。キリストが主であるなら、弱い者を踏み越えて築かれる繁栄を、私たちは無条件に祝福することはできません。キリストが主であるなら、敵と呼ばれる人の中にも、外国人と呼ばれる人の中にも、社会から厄介者とされた人の中にも、神に愛される1人の人間を見ようとしなければならないのです。

そして私たち主の民には、鍵が託されています。

その鍵で、何をするのでしょう。

人を締め出すのでしょうか。それとも扉を開くのでしょうか。

今日、私たちはこの聖餐の食卓へ招かれます。この食卓の主人は私たちではありません。キリストです。私たちは招待客にすぎません。そのことを知る教会だけが、他者にも席を空けることができます。

教会の強さとは、大きな建物でも、社会的影響力でも、正しさを声高に主張することでもありません。閉ざされた扉の前に立っている人を見つけたとき、キリストから託された鍵を取り出して、静かに扉を開くことです。

そこに教会があります。

そしてその扉の向こうから、私たち自身もまた、神の国へ招かれているのです。

父と子と聖霊のみ名によって。

アーメン。

死刑執行の日に、もう一度「命」を考える

2026年8月21日、大阪市此花区のパチンコ店放火殺人事件で死刑が確定していた高見素直死刑囚(58)の刑が、大阪拘置所で執行された。

2009年7月、営業中の店内にガソリンをまいて放火し、客と従業員あわせて5人を死亡させ、10人に重軽傷を負わせた。無差別に人の生命を奪った、きわめて残酷な犯罪である。

この事件を語るとき、まず中心に置かれるべきなのは被害者である。突然人生を断たれた人々、その家族、負傷した人々が背負ったものを、死刑制度への議論によって脇へ追いやってはならない。

しかし、それと同時に、別の問いが残る。

人を殺してはならないという社会の規範を、国家は人を殺すことによって守ることができるのだろうか。

今回の執行によって、日本の確定死刑囚は100人となった。そのうち43人が再審を請求しているという。

この数字は重い。

2024年には、死刑が確定していた袴田巌さんが再審の末に無罪となった。もし国家が誤る可能性を完全には排除できないのであれば、取り返すことのできない刑罰を国家に委ねることには、それだけで深刻な倫理的問題がある。

死刑には控訴も、再審も、謝罪も、国家賠償も間に合わない瞬間がある。

死者を生き返らせる制度は存在しない。

さらに、日本の死刑には刑そのものだけでなく、その執行までのあり方にも問題がある。死刑確定者は長期間、強く制限された環境に置かれ、執行を本人に知らせるのは原則として当日である。いつ刑務官の足音が自分の前で止まるのか分からない。その状態が何年、場合によっては何十年も続く。

国際的な人権団体も、日本の死刑確定者の長期的な単独拘禁や、執行直前まで本人に知らせない運用を問題視してきた。アムネスティ・インターナショナルは、死刑確定者が孤立した状態に置かれ、執行を数時間前まで知らされない日本の運用について、その精神的影響を繰り返し指摘している。

そして今回は、もう一つ考えなければならない問題がある。

高見死刑囚の弁護側は、絞首刑そのものが憲法36条の禁じる「残虐な刑罰」にあたると主張していた。裁判所はこれを退け、平口洋法相も、1959年の最高裁判決を根拠として絞首刑を見直す考えはないと述べている。

だが、1959年の社会と、2026年の人権意識が同じでよいのだろうか。

判例が存在することと、倫理的な問いが終わったこととは同じではない。

キリスト教倫理から考えれば、死刑の問題はさらに深いところに達する。

人間の尊厳は、「善良な人間だから」与えられるものではない。

取り返しのつかない罪を犯した者にも、人間であるという事実までは消えない。キリスト教が罪人にもなお回心の可能性を語り、人間を神の似姿として理解してきたのは、そのためである。

これは犯罪を軽く見る思想ではない。

むしろ逆である。

罪を罪として徹底して問う。しかし、罪を犯した人間の存在そのものまで消してよいとは考えない。

正義と報復は、同じものではない。

犯罪者に責任を取らせることと、その生命を国家が奪うこととの間には、本来、越えてよいのかを慎重に考えなければならない一線がある。

被害者の生命が尊い。そのことに異論はない。

だからこそ、生命というものを刑罰の道具として国家が扱うことにも、同じほど慎重でなければならないのではないか。

死刑制度を廃止すれば、被害者の苦しみが消えるわけではない。死刑を執行しても、失われた生命が戻るわけではない。

だから問題は、「死刑囚がかわいそうか」というところにはない。

国家は、人間の生命について最後の取り消し不能な決定を下す権力を持つべきなのか。

2024年、「日本の死刑制度について考える懇話会」は、現在の制度と運用には放置できない多くの問題があるとして、国会や内閣のもとに正式な検討の場を設けるよう提言した。

それでも、日本では再び一人の死刑が執行された。

犯罪の残虐さを忘れてはならない。

被害者を忘れてもならない。

しかし同時に、国家が一人の人間を拘置所の一室から刑場へ連れて行き、その生命を意図的に終わらせるという事実についても、私たちは慣れてはならない。

死刑が執行されるたびに、本来問われるべきなのは、死刑囚一人の価値ではない。

どのような正義を、私たちの社会は選ぶのか。

生命を奪った者から生命を奪うことで正義は完成するのか。

それとも文明とは、どれほど重い罪を前にしても、報復とは異なる正義を探し続ける営みなのか。

死刑制度を考えるということは、犯罪者について考えることだけではない。

それは結局、私たち自身がどのような社会でありたいのかを問うことなのである。

聖霊降臨後第12主日(特定15) 説教草稿 「境界を越えて来られる神」

【教会暦】
聖霊降臨後第12主日(特定15) 2026年8月16日 A年

【聖書日課】
旧約 イザヤ書 56:1,(2-5),6-7
使徒書 ローマの信徒への手紙 11:13-15,29-32
福音書 マタイによる福音書 15:21-28

【本 文】

今日の福音書は、読む者を少し落ち着かない気持ちにさせます。そこに描かれている主イエスが、私たちのよく知る「すべての人を受け入れるイエス」の姿とは、どこか違って見えるからです。

カナンの女が叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。ところがイエスは、何もお答えになりません。弟子たちは彼女を追い払うよう求めます。そしてようやくイエスが口を開かれたと思えば、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われます。

それでも女は退きません。イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と願います。

すると、さらに厳しい言葉が返ってきます。

「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのはよくない」。

私たちは、この言葉をきれいに取り繕わない方がよいでしょう。現代の感覚で読めば、民族的、宗教的な境界を突きつける、かなり厳しい言葉です。聖書は時として、私たちが安心して礼拝を続けることのできない言葉を差し出します。しかし、その居心地の悪さの中にこそ、福音の扉が開くことがあります。

女は言い返します。

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。

驚くべき言葉です。

彼女はイエスから離れませんでした。拒絶されたように感じても、なお神の憐れみを信じました。そしてついにイエスは言われます。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。

その時、娘は癒やされました。

この物語について、教会は長い間、女の信仰を試すためにイエスが意図的に厳しい言葉を語られたのだ、と説明してきました。それも一つの読み方でしょう。しかし、もう少し大胆にこの物語を読むこともできます。

ここでは、神の救いが人間の引いた境界を突破していく瞬間が描かれているのではないでしょうか。

ユダヤ人と異邦人。

内側の者と外側の者。

選ばれた者と、選ばれていないと考えられてきた者。

その境界線の向こう側から、一人の女性が叫び続けます。そして、その声によって救いの地平が開かれていく。

これは今日の旧約日課、イザヤ書の言葉とも響き合います。

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。

イザヤ書56章は、捕囚後のイスラエル共同体が「私たちは誰なのか」を問い直していた時代の言葉です。民族的、宗教的な純粋性を守ろうとする力が働く一方で、預言者は驚くほど開かれた神の言葉を語ります。

異邦人であっても、主に連なり、主を愛し、契約を守る者を、神は聖なる山へ導かれる。

神の家は、特定の民族だけの家ではない。

「すべての民の祈りの家」である。

ここには、聖書そのものの中で救いの理解が広げられていく姿があります。

そして使徒パウロもまた、ローマの信徒への手紙で同じ問題と格闘しています。ユダヤ人と異邦人の関係です。パウロは決して、神がイスラエルを捨てて教会を選び直したとは言いません。むしろ、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」と断言します。

これは極めて重要な言葉です。

神は、一度愛した者を捨てて、別の誰かを愛する方ではありません。

神の愛は、誰かを外へ押し出すことによって広がるのではない。

さらに場所をつくることによって広がるのです。

ここに今日の3つの日課を貫く一本の糸があります。

神の救いは、人間が設定した境界より広い。

私たちは境界をつくります。

国籍。

民族。

性別。

性的指向。

社会的地位。

障害の有無。

学歴。

所得。

宗教。

そして時には、「正しい信仰」を持っているかどうかという基準によってさえ、人を内側と外側に分けます。

もちろん共同体には一定の秩序が必要です。しかし問題は、その秩序を神の意志そのものだと思い込んでしまうことです。

歴史を振り返れば、教会もまた何度もその過ちを犯してきました。

女性は聖職に就くことができない。

異なる人種同士は結婚してはならない。

ある性的指向を持つ人は神に受け入れられない。

離婚した人は完全には教会に属することができない。

他宗教の人々には神の恵みは働かない。

そのような主張が、時には聖書を根拠として語られてきました。

しかし今日の聖書は、私たちに問いかけます。

あなたが引いたその境界線を、神も本当に引いているのか、と。

カナンの女は、境界の外側にいた人でした。

しかも、名さえ記されていません。

けれども彼女には、守りたい一つの命がありました。

娘です。

宗教論争をしたかったのではありません。神学的に自分の正しさを証明したかったのでもない。

ただ娘を救いたかった。

「主よ、どうかお助けください」。

その一言でした。

ここに信仰の原点があります。

信仰とは、正しい教義をどれだけ知っているかではありません。

自分ではどうにもならない時、それでもなお神の憐れみに手を伸ばすことです。

そして私は、この物語にはさらに深い福音があると思います。

イエスは彼女の声を聞かれました。

神の子が、一人の異邦人の女性の声を聞かれた。

これは小さなことではありません。

真に神に属する者は、他者の声によって自分の視野が広げられることを恐れない、ということだからです。

私たちは、自分と違う人の声を聞くことを恐れます。外国から来た人の声。少数者の声。貧しい人の声。若い世代の声。自分とは違う家族のかたちで生きる人の声。

「それは私たちの問題ではない」。

弟子たちの「この女を追い払ってください」という言葉は、時代を越えて何度も繰り返されています。

けれども福音は、その声を追い払いません。

むしろ、聞きます。

そして聞くことによって、共同体そのものが変えられていきます。

今日は8月16日です。昨日、私たちは8月15日を迎えました。日本では戦争の終結を記憶する日です。あの戦争から81年が過ぎました。

戦争もまた、「こちら側」と「あちら側」を絶対化するところから始まります。

自国と敵国。

味方と敵。

価値ある命と、そうでない命。

人間は境界を引き、その向こう側にいる人の顔が見えなくなった時、驚くほど残酷になることができます。

だから平和とは、単に戦争がない状態ではありません。

向こう側にいる人も、自分と同じように愛し、愛され、泣き、笑い、家族を思い、明日を願っている人間なのだと、何度でも思い出すことです。

キリストの平和は、境界の向こう側にいる人の声を聞くことから始まります。

カナンの女の声を、イエスが聞かれたように。

そして教会は、そのために存在しています。

イザヤが語った「すべての民の祈りの家」とは、誰でも好き勝手に振る舞える場所という意味ではありません。

誰も神の恵みからあらかじめ排除されない場所です。

傷ついた人が祈れる場所。

疑いを持つ人も座っていられる場所。

信仰の強い人も弱い人も共に聖餐を囲む場所。

国籍も、性別も、社会的地位も越えて、「私たちは皆、神の憐れみによって生かされている」と告白できる場所です。

間もなく私たちは聖餐の食卓へ招かれます。

そこにあるパンは、「子供たちのパン」と「小犬のパン」に分けられてはいません。

一つのパンです。

キリストの体です。

私たちは皆、その一つのパンからいただきます。

誰一人、自分の功績によってその席に座るのではありません。

皆、招かれた者です。

皆、赦された者です。

皆、恵みによって生かされる者です。

だからこそ、私たちもまた、この世界に場所をつくる者となりましょう。

誰かを押し出して自分の場所を守るのではなく、もう一つ椅子を置く。

聞かれなかった声に耳を傾ける。

忘れられた人の名前を呼ぶ。

敵と呼ばれてきた人の中にも、神の似姿を見る。

それは小さな行為かもしれません。しかし神の国は、そういう小さな場所から始まります。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。

この主の言葉を、今日は私たち自身への問いとして聞きたいと思います。

私たちの信仰は、誰かを締め出すための信仰になっていないでしょうか。

それとも、神の恵みが自分の想像よりはるかに広いことを喜べる信仰でしょうか。

神の賜物と招きは取り消されません。

神の家は、すべての民の祈りの家です。

そしてキリストは、境界の向こうから聞こえてくる声を聞かれます。

ならば公同の教会である私たちも、その声を聞こうではありませんか。

昨日まで「外の人」と呼んでいた人と、明日は同じ食卓につくために。

憎しみではなく和解を、排除ではなく交わりを、戦争ではなく平和を選ぶために。

そしてこの世界の誰一人として、神の食卓からこぼれ落ちる存在ではないことを、私たち自身の生き方によって証しするために。

主の食卓には、まだ場所があります。

神の愛には、まだ場所があります。

私たちが思っているよりも、ずっと広い場所が。

父と子と聖霊のみ名によって。

アーメン。

敗戦の日、神の前で国家を考える

――八月十五日の神学

八月十五日を、私たちは何と呼ぶべきなのだろう

「終戦の日」という言葉には、静かな響きがある。戦争が終わり、平和が戻ってきた日。しかし歴史を正確に見ようとするなら、それだけでは足りない。日本にとってこの日は、戦争が自然に「終わった」日ではない。国家が遂行した戦争に敗れ、その政治的・軍事的構想が破綻したことを認めざるを得なくなった日である。

だから私は、八月十五日を「敗戦の日」と呼ぶことには重要な意味があると考える。

それは日本を貶めるためではない。逆である。

敗北を敗北として語ることができる社会だけが、敗北から学ぶことができるからだ。

そしてキリスト教神学にとって、この日はさらに深い問いを突きつける。

国家とは何か。権力とは何か。教会は国家に対してどこに立つのか。そして、人間はなぜ、神ならぬものを神としてしまうのか。

八月十五日は、単なる歴史記念日ではない。

人間と国家の罪について考える、きわめて神学的な日なのである。

一 戦争を「悲劇」だけで終わらせてはならない

第二次世界大戦を語るとき、日本ではしばしば「多くの人が犠牲になった」「戦争は悲惨だった」という言葉が用いられる。

もちろん、それは間違っていない。

東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下、各地の空襲、飢餓、兵士たちの死、戦争未亡人や孤児たちの苦難。日本の民衆が経験した苦しみは巨大であった。それを軽視する理由などない。

しかし、ここには一つの危険がある。

戦争をただ「すべての人が被害を受けた悲劇」として語れば、誰が何をしたのかという歴史的責任が消えてしまうからである。

日本は戦争の被害国であると同時に、アジアにおける侵略と植民地支配の主体でもあった。

朝鮮半島、中国、東南アジア、太平洋の島々。その土地には、日本の軍事的・植民地的支配によって生命、自由、文化、尊厳を傷つけられた無数の人々がいた。

ここを曖昧にしてはならない。

「日本人も苦しんだ」ということと、「日本国家が他者を苦しめた」ということは、互いに打ち消し合う事実ではない。

両方とも真実である。

成熟した歴史認識とは、自国民の死者を悼みながら、自国が生み出した他者の死にも目を向けることである。

神学的に言えば、これは「記憶の倫理」である。

聖書の記憶は、自分たちに都合のよい過去だけを保存する記憶ではない。イスラエルの王たちの失敗も、弟子たちの裏切りも、ペトロの否認も、初代教会の争いも隠されなかった。

なぜか。

救いとは、過去を美化することによって始まるのではなく、真実を直視することから始まるからである。

二 最大の神学的問題は「国家の偶像化」であった

日本の戦争を神学的に考えるとき、最も深刻な問題は、単に軍部が暴走したことではない。

もっと根源的なところに問題がある。

それは、国家が究極的な価値を帯びたことである。

キリスト教信仰には、極めて危険な命題が一つある。

「主は神である」。

信仰者にはあまりに当然の言葉である。しかし政治にとって、これは恐ろしい言葉でもある。

なぜなら「神のみが神である」という告白は、同時に、

国家は神ではない。
民族は神ではない。
天皇も神ではない。
軍隊も神ではない。
国旗も神ではない。
国家の栄光も神ではない。

という宣言になるからである。

聖書が偶像礼拝を繰り返し批判する理由は、単なる宗教儀礼の違いではない。有限なものを絶対化するとき、人間は必ず、その絶対化されたもののために他者を犠牲にし始めるからだ。

国家そのものは必要である。

秩序を維持し、権利を保障し、公共善を実現するために政治共同体は必要である。しかし国家が自らを究極化した瞬間、国家は人間を守る制度から、人間を要求する偶像へと変わる。

「国のために死ね」という命令が神聖化され、「敵」を殺すことが道徳化され、国家への服従が良心より上位に置かれる。

そこで起きているのは政治の問題だけではない。

偶像礼拝なのである。

三 だから、教会の責任は重い

この点で、日本のキリスト教会は自らを安全な場所に置くことができない。

「戦争を起こしたのは国家であって、教会ではない」と言えば済む話ではないからである。

むしろ問われるべきなのは、国家が絶対化されていくとき、教会は「神のみが神である」と語ったのか、ということである。

日本基督教団は1967年、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を公にし、教会が戦争遂行に同調し、その誤りを正しく批判できなかった責任を告白した。

日本聖公会も1996年、第49定期総会で「日本聖公会の戦争責任に関する宣言」を決議し、戦前・戦中の植民地支配と侵略戦争を支持・黙認した責任を認めた。そこでは国家への迎合によって教会の預言者的使命を十分に果たせなかったことが明確に反省されている。

これは非常に重要である。

なぜなら、教会の戦争責任とは「当時の一部の聖職者が判断を誤った」という程度の問題ではないからだ。

より深い問題は、教会が国家の言語を福音の言語より優先させたことにある。

国家が「敵」と呼んだ者を、教会も敵として見た。

国家が犠牲を要求すると、教会はその犠牲を美化した。

本来なら国家の外側から「否」と言うべき教会が、国家の精神的補助装置になってしまった。

ここに、教会の罪がある。

教会の役割とは国家に宗教的祝福を与えることではない。

必要ならば国家に向かって、「あなたも神ではない」と語ることである。

四 十字架は「勝者の神学」を破壊する

キリスト教の中心にある十字架ほど、国家主義と相容れない象徴はない。

十字架上のイエスは勝者ではなかった。

軍隊を率いず、領土を獲得せず、敵を征服せず、政治的成功を収めなかった。

ローマ帝国という巨大な権力によって処刑された一人の人間である。

ところがキリスト教は、この敗北した者の中に神の栄光を見る。

ここには世界の価値観の逆転がある。

帝国は「力こそ秩序をつくる」と考える。

十字架は「力によって踏みにじられた者の側に神がおられる」と告げる。

帝国は勝者の歴史を書く。

福音は処刑された者の名前を記憶する。

この逆転を真剣に受け取るなら、キリスト教会は戦争を「どちらが勝ったか」という視点だけで見ることはできない。

問うべきなのは、誰が踏みにじられたかである。

誰の土地が奪われたのか。
誰の言葉が消されたのか。
誰が徴用されたのか。
誰が飢えたのか。
誰が「敵」と名付けられ、人間として扱われなくなったのか。

十字架の神学とは、歴史を下から読む神学である。

五 広島と長崎を語るなら、南京も沖縄も朝鮮も語らなければならない

日本の戦争記憶には、もう一つの課題がある。

広島と長崎の原爆被害を世界に伝えることは、日本に課せられた重要な使命である。核兵器による大量殺戮を二度と許してはならないという証言は、人類全体の財産である。

だが、そこで日本が「唯一の被爆国」という被害の記憶だけに閉じこもれば、歴史は再び片眼になる。

広島を語るなら南京を忘れてはならない。

長崎を語るなら植民地支配を忘れてはならない。

沖縄を語るなら、本土防衛のために沖縄がどのような位置に置かれたかを問わなければならない。

そして朝鮮半島、中国、フィリピン、東南アジア、太平洋諸地域の人々の記憶にも耳を澄まさなければならない。

ここで必要なのは「どちらの被害が大きかったか」という競争ではない。

苦しみを比較して順位をつけることほど不毛なことはない。

必要なのは、すべての死者を国家の物語から解放することだ。

死者は国家の所有物ではない。

日本人の死者も、中国人の死者も、朝鮮人の死者も、米国人の死者も、その他あらゆる死者も、まず一人の人間だった。

神学は、その一人を数える。

国家はしばしば死者を数字にするが、神は名を呼ぶ。

六 「悔い改め」は自己否定ではない

戦争責任を語ると、「いつまで謝罪するのか」「いつまで過去を背負うのか」という声が上がる。

しかし、これは悔い改めを誤解している。

キリスト教における悔い改め、メタノイアとは、永遠に自分を責め続けることではない。

方向を変えることである。

過去を認め、関係を修復し、同じ構造を繰り返さない生き方へ転換することだ。

したがって戦争責任を記憶する目的は、現代の日本人に無限の罪悪感を背負わせることではない。

むしろ逆である。

過去に拘束されないために、過去を直視するのである。

隠された過去は、終わらない。

認められた過去だけが、過去になる。

これは個人にも国家にも当てはまる。

和解は忘却から生まれない。

真実、責任、悔い改め、赦し、そして関係の再構築という困難な過程を通って初めて生まれる。

だから、歴史認識とは外交上の負担ではない。

平和をつくる能力そのものなのである。

七 憲法九条を神格化せず、その倫理を守る

敗戦後、日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」という決意を前文に置いた。また、全世界の人々が「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」を持つと宣言している。第九条は、国際紛争を解決する手段としての戦争と武力による威嚇・行使を放棄した。

この思想は軽くない。

日本聖公会も、1930年ランベス会議が「国際紛争を解決する手段としての戦争」をキリストの教えと模範に相容れないものとした伝統に触れつつ、九条の平和理念との接点を語ってきた。

もちろん、憲法そのものを聖典のように絶対化してはならない。

国際政治には侵略があり、暴力から人命を守らなければならない現実もある。平和主義は、現実から目をそらすための美しい言葉であってはならない。

しかし同時に、「現実的であること」が際限のない軍事化を正当化する万能語になってもならない。

キリスト教的平和主義が問うのは、単純な「武力を持つか、持たないか」だけではない。

外交にどれほど投資したのか。

貧困や格差を減らしたか。

敵意を煽る言葉を抑えたか。

国際法を尊重したか。

難民を守ったか。

他国の民衆を人間として想像したか。

戦争を始めないために、戦争以外の手段をどこまで創造したのか。

そこまで含めて平和なのである。

「平和を実現する人々は、幸いである」とイエスは言った。

平和を「願う人」ではない。

平和をつくる人である。

八 八月十五日は、死者を利用しない日でなければならない

戦没者を追悼することは当然である。政府も八月十五日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」としている。

だが追悼には、一つの倫理的条件がある。

死者を再び国家のために利用しないことだ。

「尊い犠牲のおかげで今日の日本がある」という言葉には注意が必要である。

遺族がそのように意味づけることを否定する必要はない。しかし国家が死を「尊い犠牲」と呼ぶとき、そこには危うさがある。

なぜなら、戦争によって死んだ若者たちの多くは、本来死ななくてよかったからである。

彼らを本当に悼むなら、その死を美しく語ることより、

なぜ死ななければならなかったのか

と問わなければならない。

追悼とは死を神聖化することではない。

死を生み出した構造を二度とつくらないと誓うことである。

九 敗戦から八十一年、問われるのは「記憶する勇気」である

一九四五年八月十五日から、今日で八十一年になる。

戦争を直接経験した人々は少なくなった。

だからこそ、記憶は自然には残らない。

残す意志がなければ消える。

そして歴史が忘れられるとき、まず消えるのは日付ではない。

因果関係である。

なぜ戦争が始まったのか。

なぜ人々は熱狂したのか。

なぜ異論は排除されたのか。

なぜ報道は権力に従ったのか。

なぜ宗教は国家に従ったのか。

なぜ「敵」は人間ではないものとして描かれたのか。

この構造を忘れたとき、私たちは歴史年表を暗記していても、歴史から何も学んでいない。

戦争は、ある朝突然始まるのではない。

他者への侮蔑が許容される。

複雑な問題に単純な敵が設定される。

国家への批判が「非国民」と呼ばれる。

安全のためなら自由を少し犠牲にしてもよい、と考える。

暴力を語る言葉が勇ましさとして称賛される。

そして最後に、人を殺すことが「必要」と呼ばれる。

戦争は、そのずっと前から始まっている。

だから平和もまた、戦争が始まってからつくるものではない。

日常の言葉、教育、政治、外交、福祉、人権、宗教、そして隣人との関係の中でつくられる。

十 「二度と戦争をしない」とは、祈りではなく決断である

八月十五日に教会が語るべきことは、単純な反戦スローガンではない。

もっと厳しい言葉である。

人間は再び戦争をする。

国家は再び自己を正当化する。

宗教は再び権力に誘惑される。

民衆は再び敵を求める。

私たち自身も、その例外ではない。

だから平和には制度が必要であり、教育が必要であり、記憶が必要であり、権力を監視する自由が必要であり、良心の自由が必要なのである。

そして教会には、国家より深い忠誠が必要である。

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」。

この言葉は、政治への無関心を意味しない。

カエサルに神のものまで渡すな、という境界線でもある。

人間の良心。

人間の尊厳。

生命。

真理。

究極的忠誠。

これらは国家の所有物ではない。

八月十五日、私たちは敗戦を恥じる必要はない。

むしろ恐れるべきなのは、敗戦から何も学ばないことである。

国を愛するとは、国の過去を美化することではない。

その国が再び他者を傷つけないよう、真実を語ることである。

教会を愛するとは、教会の過去を弁護することではない。

教会が二度と権力の祭司にならないよう、自らを福音の裁きの下に置くことである。

そして死者を愛するとは、彼らを英雄の物語の中に閉じ込めることではない。

あなたの死を繰り返さない、と生きている者が誓うことである。

敗戦から八十一年。

問われているのは、過去をどう評価するかだけではない。

私たちは、あの時代と同じ誘惑を前にしたとき、今度こそ違う選択ができるのか。

そこに八月十五日の本当の問いがある。

平和とは、戦争がない状態ではない。

人間を国家より大切にし、敵と呼ばれた者の中にも神の像を認め、力より正義を、支配より和解を、沈黙より真実を選び続けることである。

その選択は、一度では終わらない。

世代ごとに、社会ごとに、教会ごとに、そして一人ひとりの良心の中で、何度でもなされなければならない。

八月十五日は、その決断を更新する日である。

敗戦を記憶することによって、敗戦を繰り返さないために。

死者を記憶することによって、次の死者を生み出さないために。

そして何より、国家を神にしないために。

神のみを神とし、人間を人間として守り抜くために。

外国人を「労働力」として招き、「隣人」として拒んではならない

日本キリスト聖公会が、永住許可の厳格化より「排除ではなく共生」を求める理由

 外国人をどのように受け入れるかは、単なる出入国管理の問題ではありません。

 そこには、私たちが人間を何として見るのかという、もっと深い問いがあります。

 働き手として見るのか。

 納税者として見るのか。

 不足する労働力を補う人員として見るのか。

 それとも、名前を持ち、家族を持ち、喜びと不安を抱き、この国で年月を重ねて生きる、一人の人間として見るのか。

 日本キリスト聖公会は、外国人政策について、無条件の受け入れを求めているのではありません。国家が在留資格を定め、法を守ることを求め、社会生活に必要な一定の条件を設けること自体は否定しません。

 しかし、その条件は、人間を選別するための壁であってはなりません。

 とりわけ、長年この国で働き、税や社会保険料を納め、子どもを育て、地域社会の一員として暮らしてきた人に対して、老後まで高い経済力を維持できることを強く要求し、それを永住の重要な条件としていくなら、私たちは一つの根本的な問いを発しなければなりません。

 日本社会は、外国人に何を求めているのでしょうか。

 働いてほしい。

 税金を納めてほしい。

 介護をしてほしい。

 工場で働いてほしい。

 建設現場を支えてほしい。

 農業を支えてほしい。

 ホテルや飲食店を支えてほしい。

 しかし、人生をここに根づかせることについては慎重であってほしい。

 もしそうであるなら、それは共生ではありません。

 人を必要な間だけ利用する社会です。

 キリストの教会は、そのような人間観に同意することができません。

外国人は、すでに「これから来る人」ではない

 日本の外国人政策について語るとき、しばしば「これから外国人をどこまで受け入れるか」という言い方がなされます。

 しかし、現実はすでにその段階を過ぎています。

 2025年末の在留外国人数は412万5,395人となり、初めて400万人を超えました。そのうち永住者は94万7,125人です。外国人は、日本社会の外側で入国を待っている抽象的な集団ではありません。すでに同じ町に住み、同じ電車に乗り、同じ学校に子どもを通わせ、同じ社会の中で生活しています。

 外国人労働者も2025年10月末には257万1,037人となり、過去最多を更新しました。外国人を雇用する事業所も37万を超えています。製造、介護、建設、宿泊、飲食、農業、小売、専門職その他、この国の日常生活の多くは、すでに外国人の働きなしには語れないところまで来ています。

 その一方で、日本の総人口は減少を続けています。2025年12月の推計では、総人口は前年同月より約59万人減少し、日本人人口はさらに大きく減少しました。15歳から64歳までの人口も減っています。外国人人口だけが増加し、日本社会の人口構成そのものが静かに変わり始めています。

 したがって、外国人との共生は、善意のある人が選ぶ「国際交流」ではありません。

 これからの日本が、自らの社会を維持しながら、人間らしい国であり続けるための現実そのものです。

 OECDも、日本が急速な人口高齢化と労働力の変化に対応するため外国人受け入れ制度を大きく変えてきたことを踏まえ、単に外国人を募集するだけでなく、外国人から長期的に選ばれ、定着してもらえる社会をつくることを重要な課題として扱っています。

 ここに、日本が避けて通れない矛盾があります。

 外国人の労働は必要である。

 しかし外国人が生活者として定着することには警戒する。

 この二つをいつまでも同時に続けることはできません。

 人間は労働力だけを国境の内側へ持ち込み、人生を国境の外へ置いておける存在ではないからです。

永住とは「恩恵」だけなのか

 永住許可は国籍取得ではありません。

 永住者になっても外国籍であり、日本国民とまったく同じ法的地位になるわけではありません。

 それでも永住資格が重要なのは、在留期間や就労活動についての制限がなくなり、この国で人生の将来を描くための大きな安定が得られるからです。

 政府自身も、永住者を、活動や期間の制限がなく、生涯日本で暮らすことが想定される最も安定した在留上の地位として位置づけています。現在示されている改定案では、その性格を理由として審査をより慎重にし、独立して生計を維持する能力について、日本人世帯の平均的な経済条件との比較、将来の年金受給見込みなどを、これまで以上に重く評価する方向が示されています。日本語能力や日本の制度への理解なども検討対象とされています。

 もちろん、永住許可に条件があること自体は不合理ではありません。

 納税や社会保険料を適正に負担すること。

 法を守ること。

 社会の一員として生活する意思を持つこと。

 これらを問うことには理由があります。

 問題は、その先です。

 人間がこの社会に属する資格を、どこまで所得によって測るのか。

 ここには慎重さが必要です。

 高い所得を長期間安定して得られるかどうかは、その人の人格の価値とは一致しません。

 景気は変わります。

 会社は倒産します。

 病気になります。

 障がいを負うことがあります。

 家族の介護が始まることがあります。

 子どもを一人で育てることになる人もいます。

 非正規雇用もあります。

 芸術、教育、福祉、介護など、社会に必要でありながら高賃金とは限らない仕事もあります。

 これは日本人にも起こることです。

 私たちは、日本人が失業したときに「この社会に住む資格を失った」とは言いません。

 高齢になって年金額が少ない日本人に、「あなたは公共の負担になる可能性があるから、この国への所属を再考する」とも言いません。

 ならば、長年この国で生活してきた外国人についてだけ、「将来、支えられる側になるかもしれない」という可能性を強く問題にするなら、その論理は厳しく吟味されなければなりません。

人間は「公共の負担」になる可能性を持って生きている

 「公共の負担にならないこと」という言葉は、行政上は理解できます。

 しかし、この言葉を人間そのものの評価へ広げてはいけません。

 なぜなら、私たちは全員、いつか誰かの負担になる可能性を持って生きているからです。

 赤ん坊は、自分で税を払いません。

 病人は、一時的に働けないかもしれません。

 障がいを負った人には支援が必要な場合があります。

 失業者は失業給付を受けます。

 高齢者は年金や医療や介護を必要とします。

 しかし、それを理由に、その人の存在を社会にとって不利益だとは考えません。

 社会とは、永遠に自立できる人間だけを集めた組織ではないからです。

 人間は、支える側と支えられる側を、生涯の中で何度も行き来します。

 昨日まで納税者だった人が、明日は患者になるかもしれない。

 今日支援を受けている人が、数年後には誰かを支えるかもしれない。

 その相互性こそ、社会を社会たらしめています。

 教会は、このことをとりわけ深く知っています。

 聖餐の食卓に集う者について、キリストは納税額によって席順を決めません。

 若い者も老いた者も、富む者も貧しい者も、健康な者も病む者も、同じ恵みによって生きます。

 自力で自分を救える者だけが神の前に立っているのではありません。

 そもそもキリスト教信仰は、人は自分だけで自分を支え切れないという真実から始まっています。

 それなのに、社会に対してだけ「他人の助けを必要としない人間でなければ十分な成員とは認めない」と考えるなら、私たちは礼拝で告白することと、社会で実践することを分裂させてしまいます。

「外国人」という人間はいない

 行政には「外国人」という区分が必要です。

 しかし、教会がそこで思考を止めることはできません。

 「外国人」という言葉の向こうには、それぞれ別の人生があります。

 日本に二十年暮らした人。

 子どもが日本で生まれ、日本語を母語として育っている家庭。

 日本人と結婚した人。

 地方の工場を長年支えてきた人。

 高齢者の身体を支え続けてきた介護職員。

 研究者。

 料理人。

 建設労働者。

 会社員。

 留学生から就職し、この国で家庭を築いた人。

 彼らを一括して「外国人問題」と呼んだ瞬間、一人ひとりの顔は見えにくくなります。

 聖書が繰り返し「寄留者」に目を向ける理由は、そこにあります。

 寄留者とは、単に国籍の違う者ではありません。

 その土地の多数者が当然のように持っている安全、言葉、人間関係、制度についての知識、政治的な力を十分には持たない者です。

 だから、その人をどう扱うかによって、共同体の正しさが露わになります。

 強い者をどう遇するかではありません。

 弱い立場に置かれた者を、どのように遇するかです。

キリスト自身が「外から来た者」の場所に立たれた

 クリスマスの物語を、きれいな降誕場面としてだけ読んではなりません。

 キリストは、安全と特権に守られた中心から世界へ来られたのではありません。

 宿に場所がないところに生まれました。

 幼くして生命を狙われ、家族とともに故郷を離れました。

 成人してからも、社会の中心から遠ざけられた人々と食卓を囲みました。

 そして最後には、都の外で処刑されました。

 福音の中心に立つ方ご自身が、場所を与えられない者、追われる者、境界の外側に置かれる者の位置に立たれたのです。

 だからキリスト教会にとって、移住者や外国人の問題は周辺的な課題ではありません。

 他者を迎えるということは、キリストを迎えるという信仰の核心に触れています。

 これは、すべての移民政策を無条件に肯定せよという意味ではありません。

 国境をなくせという意味でもありません。

 法を無視せよという意味でもありません。

 むしろ逆です。

 制度を作るからこそ、その制度が人間の尊厳を傷つけていないかを問い続ける。

 法を定めるからこそ、その法が弱い者だけに過度な負担を課していないかを見る。

 国家が権限を持つからこそ、その権限が恐怖や偏見に利用されないよう監視する。

 それが、正義を求めるということです。

「日本人と同等以上」という基準の難しさ

 経済的自立の確認は必要です。

 しかし、日本人の平均所得を基準に外国人の長期的な所属を判断する考え方には、別の問題があります。

 外国人は、日本の労働市場に完全に同じ条件で参加しているとは限らないからです。

 言語、在留資格、転職制限、資格認定、採用慣行、情報へのアクセス、住宅確保、家族事情などによって、外国人が不利な位置に置かれる場合があります。

 ILOとJICAが東南アジアから日本へ来る労働者について、募集費用、苦情申立て、権利救済、公正な採用などの改善を進めているのも、労働移動が単純な自由契約だけでは説明できない現実を持つからです。

 そこで、一方では社会の構造によって低賃金の仕事に外国人を集中させ、他方では「所得が低いから長期的に社会の一員として認めにくい」とするなら、制度が生み出した不利益を本人に返すことになります。

 これは公平ではありません。

 重要なのは所得額だけではなく、長年の居住、納税、就労、家族関係、地域との結びつき、日本社会への参加などを総合的に見ることです。

 一時的に収入が低いことと、その人が社会に根づいていないことは同じではありません。

 所得は人間の生活を測る重要な数字です。

 しかし、所得は人間の所属を測る物差しにはなり切れません。

共生とは、外国人だけに「適応」を要求することではない

 共生という言葉も注意して使わなければなりません。

 外国人が日本語を学ぶ。

 日本の法律を守る。

 地域の生活習慣を理解する。

 これは重要です。

 しかし共生を、「来た側が日本社会に合わせること」とだけ理解すれば、それは一方向の服従になります。

 共生には双方の変化があります。

 国連が掲げる移住者の社会参加でも、受け入れ社会と移住者双方の関与、権利と義務、差別の防止、教育、雇用、医療、言語支援などを一体として扱っています。移住者が十分に社会へ参加できるほど、その社会の繁栄にも寄与しやすいという方向が明確にされています。

 つまり、共生とは「外国人を日本人に似せること」ではありません。

 違う背景を持つ人々が、一つの社会をともにつくることです。

 外国人が日本語を学ぶなら、日本社会も、分かりやすい日本語や多言語で情報を届ける。

 外国人に法令遵守を求めるなら、雇用主にも労働法を守らせる。

 外国人に税や社会保険料の負担を求めるなら、必要なときには同じ制度から支えられることも認める。

 外国人に地域参加を求めるなら、地域社会も外国人を客としてではなく住民として迎える。

 義務だけを共有させ、安心だけを与えない社会は、共生社会とは呼べません。

永住は「働き続けられる人への賞品」であってはならない

 ここで永住という言葉を、もう一度考える必要があります。

 十年、十五年、二十年と同じ国に暮らす。

 働く。

 税を納める。

 近所の人に挨拶をする。

 子どもが学校へ行く。

 病院へ通う。

 友人をつくる。

 家族を亡くす。

 地域の祭りに参加する。

 災害に遭えば同じ避難所へ行く。

 こうして歳月を重ねれば、人はその土地に根を張ります。

 永住とは、単に行政が与える便利な資格ではありません。

 すでに成立し始めている「ここが自分の生活の場所である」という現実に、法が安定を与えることでもあります。

 それを、将来にわたって十分稼げるかという予測だけに強く結びつけるべきではありません。

 人は働くためだけに住むのではありません。

 住むから働き、愛し、育て、支え合うのです。

 国家にとって有用である間だけ歓迎され、老い、病み、所得が低下する可能性が高くなれば距離を置かれるなら、人間は共同体の成員ではなく契約期間の長い労働資源になってしまいます。

 その考え方を、教会は受け入れません。

それでも、ルールは必要である

 排除に反対することと、無秩序を支持することは同じではありません。

 ここを曖昧にしてはなりません。

 永住には明確な基準が必要です。

 虚偽申請、不正、重大な法令違反を適切に扱うことも必要です。

 税や社会保険制度を故意に免れる行為について、合理的な審査を行うことも必要でしょう。

 日本語や制度について学ぶ機会を整えることにも意味があります。

 しかし必要なのは、厳しさそのものではなく、公平さです。

 何を満たせばよいのかが分かること。

 審査が恣意的でないこと。

 個々の生活事情が考慮されること。

 障がい、病気、育児、介護、失業などによって不合理な不利益を受けないこと。

 長年にわたる居住と社会への参加が正当に評価されること。

 不許可になった場合にも、その理由が理解でき、適切な手続によって争えること。

 そして何より、制度設計の前提に「外国人は公共の負担になるかもしれない」という疑念ではなく、「すでに共に社会を構成している人である」という認識があることです。

 秩序と共生は対立しません。

 むしろ、信頼できる秩序があるから共生できます。

 しかし恐怖からつくられた秩序は、共生を壊します。

排外感情を政策の燃料にしてはならない

 社会が不安になると、外国人は極めて便利な説明になります。

 賃金が上がらない。

 社会保障が不安だ。

 治安が心配だ。

 住宅が足りない。

 文化が変わる。

 その複雑な問題を、「外国人が増えたからだ」という一つの物語にまとめれば、話は簡単になります。

 しかし、簡単な説明が正しい説明とは限りません。

 政治がなすべきことは、人々の不安を嘲笑することでも、逆にその不安を増幅させて支持を集めることでもありません。

 事実を示し、問題を切り分け、必要な政策を実行し、日本人と外国人を互いの競争相手にしないことです。

 2026年6月、アングリカン・コミュニオンは世界的な移動と難民をめぐる声明の中で、人々を政治的な標語へと縮減し、恐怖や排除によって社会を分断する語りに抗する必要を明確にしました。そして移動する人々を、人格と尊厳を持つ存在として迎えるよう各地の教会に求めています。

 難民と就労目的の外国人、永住申請者は同じ制度上のカテゴリーではありません。

 しかし、一つの点では共通します。

 人を「外から来た者」という属性だけで見ないことです。

 これは日本キリスト聖公会が大切にしてきた姿勢とも一致します。私たちは、礼拝と社会への責任を切り離さず、社会的排除の中に置かれた人の尊厳に応答することを、信仰を生きることそのものとしてきました。

聖餐の食卓から国境を見る

 聖公会の信仰は、抽象的な理念だけによって形成されません。

 私たちは祈り、御言葉を聴き、同じ食卓に集います。

 そこに、この問題を見るための深い手掛かりがあります。

 聖餐において、一つのパンが裂かれます。

 そこに集う人々は、同じではありません。

 出身地も違います。

 言葉も違います。

 所得も違います。

 社会的地位も違います。

 政治的意見さえ違うでしょう。

 しかし、一つのパンにあずかります。

 これは「違いなど存在しない」ということではありません。

 違ったままでも、同じ恵みに生かされ得るということです。

 だから教会は、社会に対しても同じ問いを差し出します。

 違う者が、違うまま共に生きられる社会を、私たちはつくれるのか。

 共生とは、この問いから逃げないことです。

 聖公会が大切にしてきた中道も、ここで意味を持ちます。

 無制限な受け入れか、徹底した排除か。

 外国人を無条件に善と見るか、危険な存在と見るか。

 そんな二択に閉じ込められる必要はありません。

 法を守りながら、人を守る。

 秩序を維持しながら、尊厳を守る。

 社会の負担を公平に分かち合いながら、弱くなった人を見捨てない。

 違いを認めながら、一つの社会をつくる。

 それが、中道を生きるということです。

 中道とは、二つの極端な意見の算術平均ではありません。

 正義と憐れみのどちらも捨てず、複雑な現実の中に踏みとどまることです。私たちがこれまで、小さな声の尊厳を守り、不正義に沈黙せず、社会的排除に応答することを教会の務めとしてきたのも、このためです。

「隣人」とは誰か

 福音書で、「わたしの隣人とは誰ですか」と問われたイエスは、隣人となる資格の一覧表を示されませんでした。

 国籍を尋ねませんでした。

 所得証明を求めませんでした。

 その土地に何年住んでいるかも尋ねませんでした。

 傷ついている人の前で、誰が隣人になったかを問われました。

 ここには、決定的な転換があります。

 「誰なら私が助けるべき隣人なのか」という問いから、

 「私は誰の隣人になるのか」という問いへの転換です。

 外国人政策を考えるときにも、この転換が必要です。

 どの外国人なら日本社会にふさわしいのか。

 どの外国人なら十分に役に立つのか。

 どの外国人なら将来負担にならないのか。

 その問いだけを続ける社会は、自分自身を絶えず「選ぶ側」に置きます。

 しかし福音は、私たち自身を問います。

 この国で長く生き、働き、それでも不安定な身分に置かれている人に対して、私たちはどのような隣人なのか。

 その問いから、教会は逃げることができません。

共生は慈善ではなく、正義である

 外国人との共生を、「日本人が外国人に親切にしてあげること」と考えてはなりません。

 それでは、いつまでも「主人」と「客人」の関係が残ります。

 何十年暮らしても客。

 税を納めても客。

 子どもがこの国で育っても客。

 社会を支えても客。

 それは共生ではありません。

 共生とは、同じ社会をつくる者として認め合うことです。

 そしてこれは、一方的な善意ではありません。

 外国人も義務を負います。

 日本人も義務を負います。

 国も責任を負います。

 企業も責任を負います。

 教会も責任を負います。

 ともに生きるとは、互いに何も要求しないことではありません。

 むしろ、互いに責任を引き受けることです。

 だから共生には、日本語教育が必要です。

 労働者の権利保護が必要です。

 子どもの教育が必要です。

 医療へのアクセスが必要です。

 公平な雇用が必要です。

 差別を許さない社会が必要です。

 そして長くこの国で生きてきた人が、「ここで老いてもよい」と思える法的安定が必要です。

教会自身も「よそ者によって建てられた共同体」である

 さらに、クリスチャンには忘れてはならないことがあります。

 教会そのものが、国籍によって成立した共同体ではありません。

 キリストの教会は、最初から境界を越えて広がりました。

 異なる言葉を話す人々。

 異なる民族。

 異なる身分。

 異なる土地の人々。

 彼らが、同じキリストに結ばれて一つの民となりました。

 教会の「公同性」とは、世界中に支部があるという程度の意味ではありません。

 キリストにおいて、国籍より深いところで人間が結ばれ得るという告白です。

 その教会が、国籍の違いによって人間を遠ざける言葉に無批判であるなら、自らが何を告白しているのかを問い直さなければなりません。

 日本キリスト聖公会が目指してきた教会も、国境や制度の違いを超え、「ともに在る」ことを大切にし、社会の周縁や分断の中に立つことを自らの務めとしてきました。

 だから外国人との共生は、私たちにとって外部の政治課題ではありません。

 教会が教会であることに関わる問いです。

私たちが求めるもの

 日本キリスト聖公会は、永住許可制度そのものを否定しません。

 審査をなくせとも言いません。

 しかし、その基準が、所得の高さや将来の経済的有用性へ過度に傾くことには反対します。

 私たちが求めるのは、もっと厳しい制度でも、もっと緩い制度でもありません。

 もっと人間を正確に見る制度です。

 納税を見るなら、長年の納税も見る。

 所得を見るなら、その人が置かれている労働環境も見る。

 現在を見るなら、これまで日本で生きてきた年月も見る。

 個人を見るなら、家族も見る。

 義務を求めるなら、権利も保障する。

 日本語能力を求めるなら、学ぶ機会も保障する。

 社会への適応を求めるなら、社会の側にも受け入れる努力を求める。

 そして、一時的に病み、失業し、老い、支援を必要とする可能性を、人間として当然に起こり得ることとして扱う。

 それが共生です。

日本という社会が問われている

 外国人政策は、外国人だけを試す制度ではありません。

 それは日本社会自身を試しています。

 人口が減るから外国人が必要なのか。

 人手不足だから必要なのか。

 経済成長のために必要なのか。

 もちろん、それらも現実です。

 しかし、それだけでは足りません。

 人間を経済的な必要によって迎えた社会は、経済的な必要がなくなれば、その人を遠ざけることができてしまうからです。

 私たちは、もっと深い理由によって共に生きなければなりません。

 同じ人間だからです。

 同じ社会に生きているからです。

 互いに支えなければ生きられないからです。

 そしてクリスチャンにとっては、さらに明確です。

 その人も神によって造られ、神に知られ、神に愛されているからです。

排除ではなく、共に未来をつくる

 日本はこれから、人口減少と高齢化の中で大きく変わっていきます。

 昔と同じ社会をそのまま保存することはできません。

 その変化を恐怖によって受け止めるのか。

 それとも、新しい隣人とともに社会をつくり直す機会として受け止めるのか。

 私たちは後者を選びます。

 外国人を特別扱いせよということではありません。

 外国人だけを優遇せよということでもありません。

 日本人にも外国人にも、人間として同じ尊厳を見る社会を求めます。

 ルールは必要です。

 責任も必要です。

 しかし、ルールの目的は、人を追い出すことではありません。

 異なる人々が安心して共に暮らせる秩序をつくることです。

 そして教会は、その秩序の中に慈しみがあるかを問い続けます。

 働ける人だけを歓迎する社会ではなく、老いることのできる社会。

 強い人だけを残す社会ではなく、弱くなっても居場所を失わない社会。

 外国人を一時的な労働力として消費する社会ではなく、隣人として迎える社会。

 国籍の違いを消すのではなく、その違いを越えて同じ食卓に着ける社会。

 それが、私たちの願う共生です。

 日本キリスト聖公会は、この問題について沈黙しません。

 外国人だから守るのではありません。

 人間だから、その尊厳を守ります。

 そして私たち自身もまた、神の前では、土地も生命も恵みとして与えられた寄留者にすぎないことを忘れません。

 この国に誰を住まわせるかという問いの前に、もっと根源的な問いがあります。

 私たちは、神から与えられたこの場所で、どのような隣人として生きるのか。

 日本の未来を決めるのは、外国人の数だけではありません。

 異なる人と共に生きることのできる社会であるかどうかです。

 排除は、社会を一時的に単純にします。

 共生は、社会を複雑にします。

 しかし福音が私たちを招いているのは、単純で安全な同質性ではありません。

 違う者と出会い、責任を分かち合い、それでも同じ食卓に着くという、困難で豊かな交わりです。

 教会は、その可能性を、この世界のただ中で先に生きるために存在しています。

「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」

(申命記10章19節・新共同訳)

なぜ、教会は社会に向き合うのか

日本キリスト聖公会が、平和・人権・貧困・労働・被造物・死刑について語る理由

 教会は、社会問題を専門とする団体ではありません。

 しかし、だから社会について沈黙してよいわけでもありません。

 教会が告げる福音は、人間の魂だけを救って、身体や生活や社会を放置するものではないからです。キリストが愛されたのは、抽象的な「人類」ではありません。飢えた人、病む人、排除された人、罪を負った人、権力によって小さくされた人、一人ひとりの具体的な生命でした。

 神が人となったという信仰を本気で受け取るなら、信仰は必ず人間の現実に触れます。

 戦争で家を失う人がいる。働いても生活できない人がいる。差別によって尊厳を奪われる人がいる。国家によって生命を絶たれる人がいる。気候の変化によって土地や生業を失う人がいる。

 その現実の前で、「教会は宗教だけを語ります」と言うことはできません。

 それは信仰を守ることではなく、信仰の射程を狭めることです。

 日本キリスト聖公会が社会に向き合う理由は、政治的な流行に従うためでも、特定の政党を支持するためでもありません。

 私たちは、キリストを信じるから社会に向き合います。

礼拝堂の扉の外にも、神はおられる

 教会の礼拝では、神を「天地の造り主」と告白します。

 この告白は重いものです。

 世界が神によって造られたのであれば、信仰の対象となる領域と、信仰とは無関係な領域とを、人間の都合で切り分けることはできません。

 家庭も、職場も、学校も、病院も、議会も、裁判所も、市場も、海も、森も、国境も、戦場も、この同じ世界の中にあります。

 日曜日には神を礼拝し、月曜日から土曜日までは利益、権力、競争、暴力の原理に従うのであれば、信仰は一週間の七分の一に縮んでしまいます。

 しかし、聖餐で差し出されるパンは、現実の大地から実った麦によって作られます。葡萄酒もまた、土、水、光、人の労働によって食卓に届きます。

 聖餐は、この世界から逃げるための食事ではありません。

 世界を神から受け直す食事です。

 そこで私たちは、すべてが自分の所有物ではなく、与えられた恵みであることを思い知らされます。そして同じ一つのパンにあずかりながら、隣人が飢えていることを当然とはできなくなります。

 日本キリスト聖公会が受け継ぐ祈りと礼拝は、社会から撤退するためのものではなく、この世界を神の眼差しでもう一度見るためのものです。本教会がこれまで、「祈りと行動」を切り離さず、世界の痛みに応答することを教会の務めとしてきたのも、この理解によります。
 世界の聖公会でも、宣教は福音を言葉で告げることだけには限定されていません。不正な社会の仕組みを変え、あらゆる暴力に抗し、平和と和解を求め、被造物のいのちを守ることまでが、一つの宣教として位置づけられています。

 それは当然です。

 隣人を愛することと、隣人を苦しめる仕組みを放置することは両立しないからです。

平和

戦争を「仕方のないこと」にしない

 私たちは、戦争を当然の政治手段とは考えません。

 人間の歴史には、自衛、侵略への抵抗、他者を守るための実力行使という極めて困難な問題があります。したがって、すべての武力行使を同一の言葉で裁けば済むほど、現実は単純ではありません。

 しかし、その複雑さを理由に、戦争そのものを日常化してはなりません。

 戦争が始まれば、「国家」「安全保障」「勝利」という巨大な言葉の下で、一人の人間の死が数字へ変えられていきます。

 しかしキリストにとって、人間は数字ではありません。

 一人の兵士にも名前があります。一人の民間人にも愛する人がいます。一人の子どもにも、その後に続くはずだった人生があります。

 だから教会は、戦争を語るとき、国家の地図だけを見てはなりません。

 人間の顔を見なければなりません。

 侵略、民族虐殺、テロ、拷問、人質行為、無差別攻撃、民間人への攻撃を、誰が行ったかによって善悪を変えることはできません。

 自分たちが支持する国の暴力だけを正当化し、敵対する国の暴力だけを非難するなら、それは正義ではありません。

 正義は国旗を選びません。

 近年の英国国教会自身も、戦争の現実を直視しながら、教会の使命を平和と正義のために祈り働くことに置き、現代兵器の破壊力が増大する時代だからこそ、非暴力への呼びかけが持つ意味を改めて論じています。

 私たちが求める平和とは、単なる停戦でもありません。

 銃声が消えても、人々が飢え、少数者が迫害され、女性が暴力に怯え、子どもが教育を受けられず、人がものを言えば逮捕される社会を、平和とは呼べません。

 平和とは、人が恐怖によって沈黙させられず、尊厳をもって明日を待つことのできる状態です。

 だから平和を祈ることは、戦争反対という一つの主張だけでは終わりません。

 飢餓を減らすことも、差別をなくすことも、拷問を拒むことも、難民を守ることも、核兵器によって人類全体を脅迫する構造を問い直すことも、同じ平和への道です。

 平和とは、戦争が始まってから求めるものではありません。戦争を必要とするほど人間を追い詰めない社会を、日々つくることです。

民主主義と人権

国家は神ではない

 日本キリスト聖公会は、国家を敵視しません。

 同時に、国家を神聖化しません。

 政治には公共の秩序を守り、人々の生命と権利を保障する重要な責任があります。しかし、政治権力は人間によって担われる以上、誤ります。腐敗します。暴走することがあります。

 だから権力には、常に限界が必要です。

 これは信仰の核心とも深くかかわっています。

 究極の忠誠が神に属するなら、国家、民族、政党、指導者のいずれも絶対者にはなりません。

 為政者を批判することが国家への裏切りとされ、政府の方針に疑問を呈することが不忠とされ、宗教が政治指導者の正しさを保証する道具になったとき、教会は極めて危険な場所に立っています。

 国家を礼拝し始めた教会は、やがて人間を犠牲にします。

 だから私たちは、表現の自由、報道の自由、信教の自由、公正な裁判、法の下の平等、少数者の権利を大切にします。

 人権とは、国家が善意によって国民に与える褒美ではありません。

 人間であることそのものから奪ってはならない尊厳です。

 聖公会は過去の世界的な協議においても、世界人権宣言を支持し、拷問、良心の囚人、不公正な司法、死刑に対して教会が声を上げるよう明確に求めてきました。

 しかし、人権を守るということは、自分と同じ意見の人の自由だけを守ることではありません。

 むしろ民主主義の価値は、自分が嫌いな人、自分と違う信仰を持つ人、自分とは反対の政治意見を持つ人にも、同じ権利を認められるかどうかによって試されます。

 多数決は民主主義の方法の一つですが、多数者が少数者から尊厳を奪うことを正当化する免許ではありません。

 百人のうち九十九人が一人を踏みつけることに賛成したとしても、その一人の痛みが正義になるわけではありません。

 教会は、その一人を忘れてはなりません。

貧困と労働

「働けば何とかなる」と言えない社会を直視する

 貧困について語ると、人間はすぐに個人の責任を問いたがります。

 もっと努力すればよかった。

 もっと勉強すればよかった。

 もっと節約すればよかった。

 もっと働けばよかった。

 人間社会というものは、苦しんでいる人を助けるより、その人がなぜ苦しんでいるのかを本人のせいにする方が、どうやら手軽にできています。

 しかし現実の貧困は、それほど単純ではありません。

 低賃金、不安定雇用、住宅費、教育費、医療費、障がい、病気、介護、ひとり親家庭、地域格差、差別、家族環境。人間の生活は、無数の条件の中にあります。

 国際労働機関も、世界で失業率だけを見れば説明できない深刻な問題が残り、低所得国を中心に働いても貧困から抜けられない人々が多数存在すること、また実質賃金が十分回復していない国が多いことを報告しています。

 だから私たちは、貧困を「怠惰の結果」とだけ考えません。

 働くことは、人間の価値を証明する試験でもありません。

 労働は、人が社会に参加し、自らと家族の生活を支え、他者の必要に応える営みです。

 ならば労働には尊厳がなければなりません。

 安全に働けること。

 休めること。

 病気になれば治療を受けられること。

 子どもを育てられること。

 住む場所を確保できること。

 老後を恐怖だけで迎えなくてよいこと。

 そして、通常の労働時間によって人間らしい生活を営めるだけの所得を得ること。

 近年、国際労働機関も「生活可能な賃金」を、労働者とその家族が相応の生活水準を維持するために必要な所得という方向で明確に位置づけ、各国でその実現を促しています。

 これは経済の外側から投げ込まれた道徳論ではありません。

 経済は、本来、人間が生きるために存在します。

 人間が経済のために存在するのではありません。

 市場は有用な仕組みです。しかし市場には良心がありません。

 利益を計算することはできますが、一人の母親の疲労を計ることはできません。株価を表示することはできますが、介護する家族の眠れない夜を価格に換算することはできません。

 だから社会には、市場だけでは守れないものを守る責任があります。

 教会も同じです。

 貧しい人に食事を渡すだけで満足してはなりません。

 なぜ、その人が食事を買えないのかまで問わなければなりません

 慈善は必要です。

 しかし、慈善を永遠に必要とする仕組みが残されているなら、その仕組みも問わなければなりません。

気候と被造物

世界は、人間だけの財産ではない

 自然を守ることは、教会にとって余裕があるときに行う環境活動ではありません。

 天地を造られた神を信じることの帰結です。

 創造の物語において、人間は世界の所有者として現れません。

 人間自身もまた、土から造られた被造物です。

 私たちは自然の外側に立って自然を管理しているのではありません。

 空気を吸い、水を飲み、土から食べ物を受け取り、他の生命と結ばれて生きています。

 にもかかわらず、人類は長いあいだ、地球を無限に採掘し、燃やし、捨てることのできる倉庫のように扱ってきました。

 その結果は、すでに未来の予言ではありません。

 気候変動は生態系、生物多様性、人間の健康、生活、食料、水、居住環境に影響を及ぼしており、その被害は、とりわけ脆弱な立場にある人々に重く集中します。IPCCは、温暖化が一段進むごとに複数の危険が増大し、迅速で持続的な排出削減と適応によって将来の損失を減らせることを示しています。

 ここには重大な不公平があります。

 環境への負荷を最も多く生み出した人と、その結果を最も厳しく受ける人が、同じとは限らないからです。

 豪雨で家を失う人。

 干ばつで農業を続けられなくなる人。

 海面上昇によって故郷そのものを失う人。

 冷暖房費を払えず、猛暑や寒波の危険にさらされる人。

 気候の問題は、単なる温度の問題ではありません。

 生命と公平の問題です。

 だから私たちは、礼拝で創造の恵みに感謝しながら、生活では際限なく消費するという矛盾を当然とはしません。

 教会自身もまた、エネルギー、移動、調達、廃棄物、建物、資産運用を問い直す必要があります。

 世界の聖公会が、被造物の保全を宣教そのものの一部と位置づけているのも、このためです。

 被造物を守ることは、自然を神格化することではありません。

 逆です。

 自然を神のものとして尊び、人間が神のように振る舞うことをやめることです。

死刑

国家にも、越えてはならない一線がある

 日本キリスト聖公会は、死刑制度に反対します。

 この立場は、犯罪被害を軽視するものではありません。

 まして、加害者だけを見て被害者や遺族の苦しみを忘れるものでもありません。

 殺された人の生命は戻りません。

 残された家族の悲しみも、判決一つによって消えるものではありません。

 だからこそ、この問題を軽い理念で扱ってはなりません。

 それでも私たちは、国家が計画的に一人の人間の生命を奪う制度を支持しません。

 理由は明確です。

 第一に、人間の生命の尊厳は、善良な人だけに認められるものではないからです。

 罪は裁かれなければなりません。

 重大な犯罪には重大な責任があります。

 しかし、「あなたは重大な罪を犯した。ゆえに、あなたの生命にはもはや価値がない」という結論まで国家が下すことを、私たちは認めません。

 第二に、司法は人間によって運営される以上、誤判の可能性を完全には消せません。

 懲役刑の誤判であれば、失われた年月を完全に返すことはできなくても、誤りを認め、釈放することはできます。

 死刑には、それができません。

 第三に、死刑は悔い改めの時間を国家が終わらせます。

 キリスト教の信仰において、人間は過去の最悪の行為だけによって永久に定義される存在ではありません。

 赦しとは、犯罪をなかったことにすることではありません。

 悔い改めとは、刑罰を免れることでもありません。

 しかし、人間が最後まで変わり得るという希望そのものを、教会は手放すことができません。

 聖公会でも、1988年のランベス会議は死刑を行う政府に反対し、人間に与えられた尊厳を守りながら司法を実現する別の刑罰を求めています。

 「生命は尊い。だから人を殺した者を殺す」という論理には、解くことのできない矛盾があります。

 私たちは犯罪者の行為を肯定しません。

 しかし、犯罪者でさえ人間であることを否定しません。

 そこが、国家にも越えてはならない一線です。

教会は政治的であってよいのか

政党には属さない。しかし、苦しみに対して中立にはならない

 教会が平和、人権、貧困、労働、環境、死刑について語れば、「教会が政治に口を出すべきではない」という批判が必ず起こります。

 この批判には、一つの正しい警戒があります。

 教会が特定の政党や政治家を神の名によって絶対化し、信徒に政治的服従を要求するなら、それは危険です。

 祭壇を選挙運動に利用してはなりません。

 福音を政党綱領に変えてもなりません。

 しかし、ここから「教会は社会について何も語ってはならない」という結論は出ません。

 なぜなら、沈黙もまた現実に作用するからです。

 人種差別の前で沈黙すれば、差別する側には都合がよい。

 独裁の前で沈黙すれば、権力者には都合がよい。

 搾取の前で沈黙すれば、利益を得る側には都合がよい。

 戦争犯罪の前で沈黙すれば、加害者には都合がよい。

 沈黙は、いつも中立ではありません。

 だから教会は、政党政治から一定の距離を保ちながらも、人間の尊厳については明確でなければなりません。

 右派だから反対するのでもありません。

 左派だから支持するのでもありません。

 誰が行ったことであっても、人間を踏みつけるものには反対する。

 誰が提案したことであっても、人間を生かすものは公平に検討する。

 それが、私たちの立場です。

 聖公会が大切にしてきた中道とは、善と悪の中間を選ぶことではありません。

 まして、不正を前に「双方に事情があります」と言って逃げる技術でもありません。

 複雑な現実を単純化せず、それでも最後には、傷つけられている生命の側から真実を見る勇気です。

 本教会が独立した聖公会として、制度的所属よりも「どのように祈り、どのように福音を証しするか」を重んじてきたことも、この姿勢と一つにつながっています。

十字架を見るということ

神は、勝者の席ではなく、傷つけられた者の場所に立たれた

 キリスト教の中心には十字架があります。

 これは忘れてはならない事実です。

 十字架は、当時の権力によって合法的に執行された処刑でした。

 イエスは、社会の安全を守る側の席ではなく、処刑される側に置かれました。

 そこには、キリスト教が権力を見るときの決定的な視点があります。

 私たちは歴史を、勝った者の宮殿からだけ見ません。

 十字架の下から見ます。

 戦争を、作戦本部からだけ見ない。

 爆撃された家から見る。

 経済を、株価からだけ見ない。

 月末の家賃を払えない家庭から見る。

 労働を、経営効率からだけ見ない。

 疲れ果てて帰宅する労働者から見る。

 刑罰を、国家の威信からだけ見ない。

 独房にいる人間と、犯罪によって愛する者を奪われた家族、その双方の涙から見る。

 気候危機を、国全体の平均値からだけ見ない。

 故郷を失いつつある一つの島、一人の農民、一人の子どもの未来から見る。

 これは弱者を無条件に正しいとすることではありません。

 力の弱い側の痛みは、力の強い側が放置しても社会を動かせないから、教会が意識してそこへ耳を向けるということです。

 本教会がこれまで、裂かれた世界のただ中に身を置き、痛みと沈黙の場所から祈る教会を志してきた理由もここにあります。

復活を信じるということ

「世の中はこんなものだ」で終わらせない

 しかし、キリスト教は十字架だけでは終わりません。

 復活があります。

 復活を信じるとは、死後の世界について一つの教説を信じるだけではありません。

 暴力が最後の言葉ではない。

 不正義が最後の言葉ではない。

 貧困が最後の言葉ではない。

 差別が最後の言葉ではない。

 失敗が最後の言葉ではない。

 死さえも最後の言葉ではない。

 そう信じることです。

 だからクリスチャンは、「世の中とはこんなものだ」と簡単には言えません。

 戦争はなくならない。

 差別は人間の本性だ。

 貧困は自己責任だ。

 政治は汚いものだ。

 環境破壊は経済成長の代償だ。

 犯罪者には死んでもらうしかない。

 こうした言葉は、一見すると現実的に聞こえます。

 しかし、その「現実主義」はしばしば、現在存在する不正義を永遠のものにしてしまいます。

 復活を信じる人間は、現実を直視します。

 しかし現実を絶対化しません。

 いま存在している世界と、存在し得る世界とを区別します。

 そして、その間にある距離を少しでも縮めるために働きます。

 それが希望です。

 希望とは、楽観ではありません。

 何もしなくても最後には良くなると考えることでもありません。

 希望とは、良くならない可能性を知りながら、それでも善を行うことです。

私たちが社会に向き合う理由

 日本キリスト聖公会は、社会運動団体になることを目指しているのではありません。

 私たちは教会です。

 聖書を読みます。

 祈ります。

 洗礼を授けます。

 聖餐を祝います。

 罪を悔い改めます。

 赦しを求めます。

 死者を葬ります。

 新しい生命を祝福します。

 そして、だからこそ社会に向き合います。

 礼拝と社会への責任は、二つの別々の仕事ではありません。

 礼拝で「主よ、憐れみたまえ」と祈るなら、礼拝堂の外で憐れみを拒むことはできません。

 「御国が来ますように」と祈るなら、不正義の支配を当然視することはできません。

 「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るなら、隣人が今日の食事を得られない社会に無関心ではいられません。

 「我らの罪を赦したまえ」と祈るなら、人間を過去の罪だけによって永久に閉じ込めることはできません。

 「平和を我らに与えたまえ」と祈るなら、戦争を容易に選択できる政治を当然とはできません。

 私たちの祈りが本物であるなら、それはいつか行動になります。

 そして私たちの行動が信仰から生まれるものであるなら、それは憎悪ではなく、愛によってなされなければなりません。

日本キリスト聖公会が立つ場所

 私たちは、完全な社会をつくれるとは考えません。

 教会自身もまた誤ります。

 歴史上、教会は権力に接近し、戦争を祝福し、差別を正当化し、植民地主義に加担し、女性を沈黙させ、性的少数者を傷つけ、貧しい人に自己責任を説いてきました。

 だから私たちは、社会だけを裁く立場には立ちません。

 まず自らを問い続けます。

 教会が語る正義は、教会自身にも向けられなければならないからです。

 その上で、私たちは社会の中に立ちます。

 権力ではなく生命を基準にします。

 効率だけでなく尊厳を見ます。

 多数者だけでなく少数者の声を聴きます。

 今日だけでなく、まだ生まれていない世代の未来を考えます。

 犯罪の重大さとともに、加害者も人間であることを忘れません。

 国家の安全とともに、戦場に生きる一人の生命を忘れません。

 経済成長とともに、その成長から取り残された人を忘れません。

 そして、誰について語る場合でも、その人がまず神に愛された一人の人間であるという出発点を失いません。

 これが、日本キリスト聖公会が社会に向き合う理由です。

 私たちは世界を支配したいのではありません。

 世界から逃げたくもありません。

 この世界のただ中で、神を礼拝し、人を愛し、真実を語り、傷ついた者と共に立ち、平和をつくる者でありたいのです。

 教会の価値は、どれほど大きな建物を持つかではありません。

 どれほど多くの人を集めるかでもありません。

 誰も見ていない場所で、誰の側に立つかです。

 そして、社会の中で声を奪われた人がいる限り、教会にはまだ語るべき言葉があります。

 泣いている人がいる限り、教会にはまだ祈るべき祈りがあります。

 不正義がある限り、教会にはまだ悔い改め、働くべきことがあります。

 絶望する人がいる限り、教会にはまだ告げるべき福音があります。

 その福音とは、世界がすでに正しいという知らせではありません。

 この世界は、なお変えられ得るという知らせです。

 そして神は、そのために私たちを、この時代、この社会、この場所へ遣わしておられます。

「あなたの口を開いて弁護せよ
ものを言えない人を
犠牲になっている人の訴えを。」

(箴言31章8節・新共同訳)

歓迎ではなく、平等を― LGBTQ+排除を支える教会制度を問う

 日本のキリスト教会は、LGBTQ+をめぐる問題を、長いあいだ「社会の価値観」と「聖書の教え」との対立として論じてきた。しかし、本当に問われているのは、近代社会と古代文書の衝突ではない。教会が自らに委ねられた権威を、誰を祝福し、誰を沈黙させ、誰の人生を正当なものとして認めるために用いてきたのかという問題である。

 日本キリスト聖公会は、LGBTQ+であることを罪や病気、信仰の欠如とは認めない。性的指向や性自認を変えることを目的とする「治療」「矯正」「解放の祈り」も拒否する。さらに、洗礼、聖餐、婚姻、教会運営、神学教育、宣教、そして主教・司祭・助祭への召命を含む教会生活への完全な参与を保障する。被害が生じたときに、「赦し」や「教会の一致」を口実として被害者へ沈黙を求めることも認めない。

 これは、単に「誰でも歓迎します」と表明することではない。異性愛者であり、シスジェンダーであることを、教会生活への暗黙の参加資格としてきた構造そのものを取り除くということである。問われるのは、人当たりのよい言葉を使っているかどうかではない。誰が聖餐にあずかり、誰が祭壇に立ち、誰の結婚が祝福され、誰が意思決定に参加できるのかという、制度と権力の問題である。

 日本の教会が犯してきた最大の過ちは、性的少数者について正しい知識を持たなかったことだけではない。その無知や偏見を神の意思として他者に強制したことである。

 同性愛者に異性との結婚を勧める。祈れば性的指向が変わると教える。性的少数者であることを理由に聖職や奉仕から外す。カミングアウトした人を取り囲んで「解放」の祈りを行う。子どもに悪影響を与えるとして教会学校から排除する。本人の同意なく性的指向や性自認を家族や教会員に知らせる。こうした行為は、単なる配慮不足ではない。

 そこでは、聖書解釈の権威、按手権、聖餐共同体への所属、婚姻の承認、家族規範の決定権が、一人の人間を服従させるために用いられている。したがって、それは一部の無理解な聖職者による偶発的な失敗ではなく、宗教的権威を媒介とした制度的暴力と呼ぶべきものである。

 「あなたを愛しているから悔い改めを勧める」という言葉も、無条件に善意の表現とはいえない。相手の人格や愛する能力を根本から否定し、あらかじめ用意した人間像へ従わせようとしながら愛を語るなら、その愛は支配の言い換えにすぎない。暴力は、常に憎悪の言葉で行われるわけではない。むしろ宗教的暴力は、しばしば愛、救い、純潔、配慮、家族、悔い改めといった美しい言葉をまとって現れる。

 いわゆる転向療法や性的指向変更努力には、その有効性を裏づける信頼できる科学的根拠がない。それどころか、抑うつ、不安、自殺念慮、自己嫌悪、トラウマ反応、家族や共同体との関係破壊との関連が指摘されてきた。宗教者が関与する祈祷や霊的指導も、この問題の例外ではない。教会が科学的知見を無視して「治療」や「解放」を続けることは、信教の自由を行使しているのではなく、人間への危害を宗教的自由によって免責しようとすることである。信教の自由は、他者の人格を破壊する自由ではない。

 日本の教会では、LGBTQ+の排除を正当化する際に、「聖書には明確に書かれている」という表現が好んで用いられてきた。しかし、聖書は現代医学の診断書でもなければ、性的指向や性自認を分類した人類学事典でもない。

 古代世界における同性間の性行為をめぐる記述を、近代以降に成立した、持続的な性的指向や対等なパートナーシップという概念へ、そのまま移し替えることはできない。聖書本文が問題としているものが、搾取、暴力、身分的不平等、過剰な欲望、異教祭儀、家父長制的な名誉秩序のいずれであるかを吟味せず、現代の相互的で忠実な同性カップルへ一括して適用するなら、それは厳密な聖書解釈ではない。現代の偏見を古代の本文へ投影しているのである。

 そもそも教会は、聖書に記されたすべての社会規範を文字どおり維持してきたわけではない。奴隷制、女性の沈黙、家父長的服従、離婚、再婚、利息、戦争、財産所有などについて、教会は歴史的・社会的文脈を踏まえ、解釈を修正してきた。ところが性的少数者の問題になると、突然、歴史的文脈を無視し、限られた数節を永久不変の刑法条文のように扱おうとする。

 ここにあるのは、必ずしも聖書への忠実さではない。多数派の身体、性別役割、家族制度を神聖化し、それを揺るがす存在を排除したいという欲望である。聖書を真剣に読むとは、聖書を他人に向ける武器にすることではない。まず自分自身の権力、欲望、偽善が聖書によって裁かれることを受け入れることである。教会の問題は、聖書を厳しく読みすぎたことではない。聖書の厳しさを、いつも自分以外の誰かにだけ適用してきたことにある。

 それでも、日本の教会の内部には、性的少数者の尊厳を守ろうとする働きが生まれてきた。当事者の証言を聴く集会、セクシュアル・マイノリティのキリスト者による共同体、HIV・エイズに関する牧会、差別を批判する出版や神学研究、歓迎を明示する教会、同性カップルの祝福を模索する動きなどである。

 ただし、この歴史を教会指導部の先見性による成果として美化してはならない。変化をもたらしたのは、多くの場合、制度の中心にいた人々ではなかった。教会によって傷つけられながらも信仰を捨てず、教会の外や周縁から声を上げ続けた当事者たちである。

 米国聖公会でも、1970年代以降、当事者と支援者が教会生活への完全な参与を求め続けた。その積み重ねが、性的指向や性自認を理由とする按手差別の撤廃、同性カップルの祝福、同性婚、トランスジェンダーの人々に関わる典礼的・制度的整備へとつながった。これは教会が単に世俗社会へ迎合した結果ではない。排除されてきた人々が、教会に福音の意味を思い出させた結果である。

 日本の教会が誇り得るものがあるとすれば、「寛容な多数派が少数者を受け入れた」という自己像ではない。排除された人々の証言によって、教会自身が悔い改めへ導かれたことである。教会が救う側であり、性的少数者が救われる側だという構図は、しばしば逆転している。教会を福音へ立ち返らせてきたのは、教会が周縁へ追いやった人々だった。

 世界の諸教会は、現在もこの問題をめぐって大きく分裂している。米国聖公会は同性婚を典礼上認め、合同メソジスト教会も、同性愛者の聖職按手禁止や同性婚を司式した聖職者への処罰規定を撤廃した。一方、英国国教会は同性カップルのための祈りや祝福を一定の範囲で認めながら、婚姻そのものについては男女間のものとする立場を維持している。ローマ・カトリック教会も、同性カップルへの一定の祝福を認めつつ、それを婚姻の承認とは明確に区別している。

 これらは、従来の全面的排除と比べれば前進である。しかし、「人は祝福するが、その関係は十分には承認しない」という構造も残している。人格と関係、愛する主体とその愛の形を人工的に切り離し、「あなた自身は歓迎するが、あなたの愛は異性愛者の愛より低い位置に置く」と告げるなら、それは排除の緩和ではあっても平等ではない。

 入口では歓迎を語りながら、祭壇の前で身分差を再確認する教会を、完全に包摂的な教会とは呼べない。歓迎の言葉と制度上の差別は、矛盾なく共存できてしまう。むしろ現代の教会では、露骨な排除よりも、丁寧な言葉に包まれた不平等のほうが見抜きにくい。

 日本聖公会の主教会が、あらゆるセクシュアリティを持つ人々は神のかたちに造られ、その命は等しく尊いと表明し、性的指向や性自認による差別や信仰共同体からの排除を誤りと認めたことは、日本の主要教派における重要な前進である。

 しかし、同性婚や同性カップルの祝福について、なお「学び」と「検討」の段階にとどまるのであれば、その前進は未完である。尊厳を認めることは、相手を侮辱せず、丁寧な言葉で扱うことだけではない。聖礼典へのアクセス、聖職への召命、教会統治への参与、家族関係の公的承認を平等に保障することまで含む。

 差別的な言葉を禁止しながら差別的な制度を残すなら、差別は消えたのではない。ただ礼儀正しくなっただけである。

 教会はしばしば、この問題について「双方の立場を尊重し、一致を守らなければならない」と語る。しかし、ここには無視できない非対称性がある。一方は、自らの結婚、按手、聖餐、氏名、身体、家族を否定される。もう一方は、自分の神学的見解が共同体全体の規範として採用されないことに不満を持つ。この二つを同等の痛みや意見の相違として扱うことはできない。

 人間の平等な参与と、他者を排除する権利の主張とを、対等な選択肢として並べることは中立ではない。既存の権力関係を温存する側に立つことである。

 教会の一致は、それ自体が最高善なのではない。聖書の預言者たちは、不正義を覆い隠す偽りの平和を告発した。イエスも、傷つけられた者に沈黙を命じることで共同体の秩序を守ったのではない。加害を可視化する声によって教会が揺れるとき、問題は、その声が教会を分裂させたことではない。すでに存在していた分裂と不正義が、ようやく聞こえるようになったのである。

 LGBTQ+の完全参与とは、単に礼拝堂へ入ることを許可することではない。信徒としては歓迎するが聖職には按手しない。独身でいる限り奉仕を認める。同性の伴侶を「友人」として紹介させる。本人が日常的に用いている氏名ではなく、戸籍上の氏名だけを使用する。同性婚をした人を教会の代表職から外す。これらはすべて、条件付きの参加である。

 完全参与とは、LGBTQ+の人々が自らの存在を隠すことなく、異性愛者やシスジェンダーの人々と同じ条件で、洗礼、聖餐、婚姻、按手、統治、教育、宣教に参与できることである。性的指向や性自認を隠すことを参加や按手の条件とせず、トランスジェンダーやノンバイナリーの人の氏名、代名詞、記録上の尊厳、安全を具体的に保障することも、その一部である。

 包摂は感情ではなく、制度である。善意だけでは足りない。歓迎の言葉だけでも足りない。誰が祭壇に立ち、誰が意思決定に加わり、誰の家族が祝福されるのかという、権力配分の問題だからである。

 日本の教会は、LGBTQ+の人々に対して寛容であるべきかどうかを論じる段階を、すでに終えなければならない。寛容という言葉には、力を持つ側が、力を持たない側の存在を条件付きで許可するという構造が残る。

 教会が問われているのは、LGBTQ+の人々をどこまで許容するかではない。なぜ教会は、神のかたちに造られた人間を、自らが許可したり禁止したりできると考えてきたのか。その権力意識こそが問われなければならない。

 必要なのは、抽象的な謝罪でも、年に一度、虹色の旗を掲げることでもない。過去の説教、教育、按手審査、婚姻規定、牧会記録を検証し、どのような被害が生じたかを認定し、必要な謝罪と補償を行い、差別的な規則を廃止することである。聖職者教育には、性の多様性、人権、医学・心理学上の知見、宗教的トラウマ、アウティングの防止、守秘義務、被害者中心の対応を組み込まなければならない。

 教会が社会の差別を強化してきたのであれば、社会に向かって道徳を説く前に、自らの制度を裁くべきである。悔い改めとは、気持ちを反省することではない。権力の使い方を変え、制度を改め、被害を受けた人の権利を回復することである。

 教会は長いあいだ、自らを神の恵みの管理者であるかのように考え、誰を内側へ入れ、誰を外側へ置くかを決定してきた。しかし、福音書においてイエスが厳しく批判したのは、罪人と呼ばれた人々ではない。天国の門を人々の前で閉ざし、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げる宗教権力だった。

 LGBTQ+の人々は、教会が今後ようやく愛することを学ぶべき、外部の特殊な対象ではない。すでに教会の一部であり、信徒であり、神学者であり、司祭であり、主教であり、家族であり、神のかたちを担う存在である。

 LGBTQ+の完全参与を認めることは、教会が時代に妥協することではない。教会が、自ら語ってきた福音にようやく追いつくことである。

 問われているのは、性的少数者が教会にふさわしいかどうかではない。

 性的少数者を傷つけ、沈黙させ、排除してきた教会が、それでもなおキリストの名を名乗るにふさわしいのか。

 日本の教会が本当に向き合うべきなのは、この問いである。そこから目をそらさないことが、悔い改めの出発点となる。