日本キリスト聖公会が、永住許可の厳格化より「排除ではなく共生」を求める理由
外国人をどのように受け入れるかは、単なる出入国管理の問題ではありません。
そこには、私たちが人間を何として見るのかという、もっと深い問いがあります。
働き手として見るのか。
納税者として見るのか。
不足する労働力を補う人員として見るのか。
それとも、名前を持ち、家族を持ち、喜びと不安を抱き、この国で年月を重ねて生きる、一人の人間として見るのか。
日本キリスト聖公会は、外国人政策について、無条件の受け入れを求めているのではありません。国家が在留資格を定め、法を守ることを求め、社会生活に必要な一定の条件を設けること自体は否定しません。
しかし、その条件は、人間を選別するための壁であってはなりません。
とりわけ、長年この国で働き、税や社会保険料を納め、子どもを育て、地域社会の一員として暮らしてきた人に対して、老後まで高い経済力を維持できることを強く要求し、それを永住の重要な条件としていくなら、私たちは一つの根本的な問いを発しなければなりません。
日本社会は、外国人に何を求めているのでしょうか。
働いてほしい。
税金を納めてほしい。
介護をしてほしい。
工場で働いてほしい。
建設現場を支えてほしい。
農業を支えてほしい。
ホテルや飲食店を支えてほしい。
しかし、人生をここに根づかせることについては慎重であってほしい。
もしそうであるなら、それは共生ではありません。
人を必要な間だけ利用する社会です。
キリストの教会は、そのような人間観に同意することができません。
外国人は、すでに「これから来る人」ではない
日本の外国人政策について語るとき、しばしば「これから外国人をどこまで受け入れるか」という言い方がなされます。
しかし、現実はすでにその段階を過ぎています。
2025年末の在留外国人数は412万5,395人となり、初めて400万人を超えました。そのうち永住者は94万7,125人です。外国人は、日本社会の外側で入国を待っている抽象的な集団ではありません。すでに同じ町に住み、同じ電車に乗り、同じ学校に子どもを通わせ、同じ社会の中で生活しています。
外国人労働者も2025年10月末には257万1,037人となり、過去最多を更新しました。外国人を雇用する事業所も37万を超えています。製造、介護、建設、宿泊、飲食、農業、小売、専門職その他、この国の日常生活の多くは、すでに外国人の働きなしには語れないところまで来ています。
その一方で、日本の総人口は減少を続けています。2025年12月の推計では、総人口は前年同月より約59万人減少し、日本人人口はさらに大きく減少しました。15歳から64歳までの人口も減っています。外国人人口だけが増加し、日本社会の人口構成そのものが静かに変わり始めています。
したがって、外国人との共生は、善意のある人が選ぶ「国際交流」ではありません。
これからの日本が、自らの社会を維持しながら、人間らしい国であり続けるための現実そのものです。
OECDも、日本が急速な人口高齢化と労働力の変化に対応するため外国人受け入れ制度を大きく変えてきたことを踏まえ、単に外国人を募集するだけでなく、外国人から長期的に選ばれ、定着してもらえる社会をつくることを重要な課題として扱っています。
ここに、日本が避けて通れない矛盾があります。
外国人の労働は必要である。
しかし外国人が生活者として定着することには警戒する。
この二つをいつまでも同時に続けることはできません。
人間は労働力だけを国境の内側へ持ち込み、人生を国境の外へ置いておける存在ではないからです。
永住とは「恩恵」だけなのか
永住許可は国籍取得ではありません。
永住者になっても外国籍であり、日本国民とまったく同じ法的地位になるわけではありません。
それでも永住資格が重要なのは、在留期間や就労活動についての制限がなくなり、この国で人生の将来を描くための大きな安定が得られるからです。
政府自身も、永住者を、活動や期間の制限がなく、生涯日本で暮らすことが想定される最も安定した在留上の地位として位置づけています。現在示されている改定案では、その性格を理由として審査をより慎重にし、独立して生計を維持する能力について、日本人世帯の平均的な経済条件との比較、将来の年金受給見込みなどを、これまで以上に重く評価する方向が示されています。日本語能力や日本の制度への理解なども検討対象とされています。
もちろん、永住許可に条件があること自体は不合理ではありません。
納税や社会保険料を適正に負担すること。
法を守ること。
社会の一員として生活する意思を持つこと。
これらを問うことには理由があります。
問題は、その先です。
人間がこの社会に属する資格を、どこまで所得によって測るのか。
ここには慎重さが必要です。
高い所得を長期間安定して得られるかどうかは、その人の人格の価値とは一致しません。
景気は変わります。
会社は倒産します。
病気になります。
障がいを負うことがあります。
家族の介護が始まることがあります。
子どもを一人で育てることになる人もいます。
非正規雇用もあります。
芸術、教育、福祉、介護など、社会に必要でありながら高賃金とは限らない仕事もあります。
これは日本人にも起こることです。
私たちは、日本人が失業したときに「この社会に住む資格を失った」とは言いません。
高齢になって年金額が少ない日本人に、「あなたは公共の負担になる可能性があるから、この国への所属を再考する」とも言いません。
ならば、長年この国で生活してきた外国人についてだけ、「将来、支えられる側になるかもしれない」という可能性を強く問題にするなら、その論理は厳しく吟味されなければなりません。
人間は「公共の負担」になる可能性を持って生きている
「公共の負担にならないこと」という言葉は、行政上は理解できます。
しかし、この言葉を人間そのものの評価へ広げてはいけません。
なぜなら、私たちは全員、いつか誰かの負担になる可能性を持って生きているからです。
赤ん坊は、自分で税を払いません。
病人は、一時的に働けないかもしれません。
障がいを負った人には支援が必要な場合があります。
失業者は失業給付を受けます。
高齢者は年金や医療や介護を必要とします。
しかし、それを理由に、その人の存在を社会にとって不利益だとは考えません。
社会とは、永遠に自立できる人間だけを集めた組織ではないからです。
人間は、支える側と支えられる側を、生涯の中で何度も行き来します。
昨日まで納税者だった人が、明日は患者になるかもしれない。
今日支援を受けている人が、数年後には誰かを支えるかもしれない。
その相互性こそ、社会を社会たらしめています。
教会は、このことをとりわけ深く知っています。
聖餐の食卓に集う者について、キリストは納税額によって席順を決めません。
若い者も老いた者も、富む者も貧しい者も、健康な者も病む者も、同じ恵みによって生きます。
自力で自分を救える者だけが神の前に立っているのではありません。
そもそもキリスト教信仰は、人は自分だけで自分を支え切れないという真実から始まっています。
それなのに、社会に対してだけ「他人の助けを必要としない人間でなければ十分な成員とは認めない」と考えるなら、私たちは礼拝で告白することと、社会で実践することを分裂させてしまいます。
「外国人」という人間はいない
行政には「外国人」という区分が必要です。
しかし、教会がそこで思考を止めることはできません。
「外国人」という言葉の向こうには、それぞれ別の人生があります。
日本に二十年暮らした人。
子どもが日本で生まれ、日本語を母語として育っている家庭。
日本人と結婚した人。
地方の工場を長年支えてきた人。
高齢者の身体を支え続けてきた介護職員。
研究者。
料理人。
建設労働者。
会社員。
留学生から就職し、この国で家庭を築いた人。
彼らを一括して「外国人問題」と呼んだ瞬間、一人ひとりの顔は見えにくくなります。
聖書が繰り返し「寄留者」に目を向ける理由は、そこにあります。
寄留者とは、単に国籍の違う者ではありません。
その土地の多数者が当然のように持っている安全、言葉、人間関係、制度についての知識、政治的な力を十分には持たない者です。
だから、その人をどう扱うかによって、共同体の正しさが露わになります。
強い者をどう遇するかではありません。
弱い立場に置かれた者を、どのように遇するかです。
キリスト自身が「外から来た者」の場所に立たれた
クリスマスの物語を、きれいな降誕場面としてだけ読んではなりません。
キリストは、安全と特権に守られた中心から世界へ来られたのではありません。
宿に場所がないところに生まれました。
幼くして生命を狙われ、家族とともに故郷を離れました。
成人してからも、社会の中心から遠ざけられた人々と食卓を囲みました。
そして最後には、都の外で処刑されました。
福音の中心に立つ方ご自身が、場所を与えられない者、追われる者、境界の外側に置かれる者の位置に立たれたのです。
だからキリスト教会にとって、移住者や外国人の問題は周辺的な課題ではありません。
他者を迎えるということは、キリストを迎えるという信仰の核心に触れています。
これは、すべての移民政策を無条件に肯定せよという意味ではありません。
国境をなくせという意味でもありません。
法を無視せよという意味でもありません。
むしろ逆です。
制度を作るからこそ、その制度が人間の尊厳を傷つけていないかを問い続ける。
法を定めるからこそ、その法が弱い者だけに過度な負担を課していないかを見る。
国家が権限を持つからこそ、その権限が恐怖や偏見に利用されないよう監視する。
それが、正義を求めるということです。
「日本人と同等以上」という基準の難しさ
経済的自立の確認は必要です。
しかし、日本人の平均所得を基準に外国人の長期的な所属を判断する考え方には、別の問題があります。
外国人は、日本の労働市場に完全に同じ条件で参加しているとは限らないからです。
言語、在留資格、転職制限、資格認定、採用慣行、情報へのアクセス、住宅確保、家族事情などによって、外国人が不利な位置に置かれる場合があります。
ILOとJICAが東南アジアから日本へ来る労働者について、募集費用、苦情申立て、権利救済、公正な採用などの改善を進めているのも、労働移動が単純な自由契約だけでは説明できない現実を持つからです。
そこで、一方では社会の構造によって低賃金の仕事に外国人を集中させ、他方では「所得が低いから長期的に社会の一員として認めにくい」とするなら、制度が生み出した不利益を本人に返すことになります。
これは公平ではありません。
重要なのは所得額だけではなく、長年の居住、納税、就労、家族関係、地域との結びつき、日本社会への参加などを総合的に見ることです。
一時的に収入が低いことと、その人が社会に根づいていないことは同じではありません。
所得は人間の生活を測る重要な数字です。
しかし、所得は人間の所属を測る物差しにはなり切れません。
共生とは、外国人だけに「適応」を要求することではない
共生という言葉も注意して使わなければなりません。
外国人が日本語を学ぶ。
日本の法律を守る。
地域の生活習慣を理解する。
これは重要です。
しかし共生を、「来た側が日本社会に合わせること」とだけ理解すれば、それは一方向の服従になります。
共生には双方の変化があります。
国連が掲げる移住者の社会参加でも、受け入れ社会と移住者双方の関与、権利と義務、差別の防止、教育、雇用、医療、言語支援などを一体として扱っています。移住者が十分に社会へ参加できるほど、その社会の繁栄にも寄与しやすいという方向が明確にされています。
つまり、共生とは「外国人を日本人に似せること」ではありません。
違う背景を持つ人々が、一つの社会をともにつくることです。
外国人が日本語を学ぶなら、日本社会も、分かりやすい日本語や多言語で情報を届ける。
外国人に法令遵守を求めるなら、雇用主にも労働法を守らせる。
外国人に税や社会保険料の負担を求めるなら、必要なときには同じ制度から支えられることも認める。
外国人に地域参加を求めるなら、地域社会も外国人を客としてではなく住民として迎える。
義務だけを共有させ、安心だけを与えない社会は、共生社会とは呼べません。
永住は「働き続けられる人への賞品」であってはならない
ここで永住という言葉を、もう一度考える必要があります。
十年、十五年、二十年と同じ国に暮らす。
働く。
税を納める。
近所の人に挨拶をする。
子どもが学校へ行く。
病院へ通う。
友人をつくる。
家族を亡くす。
地域の祭りに参加する。
災害に遭えば同じ避難所へ行く。
こうして歳月を重ねれば、人はその土地に根を張ります。
永住とは、単に行政が与える便利な資格ではありません。
すでに成立し始めている「ここが自分の生活の場所である」という現実に、法が安定を与えることでもあります。
それを、将来にわたって十分稼げるかという予測だけに強く結びつけるべきではありません。
人は働くためだけに住むのではありません。
住むから働き、愛し、育て、支え合うのです。
国家にとって有用である間だけ歓迎され、老い、病み、所得が低下する可能性が高くなれば距離を置かれるなら、人間は共同体の成員ではなく契約期間の長い労働資源になってしまいます。
その考え方を、教会は受け入れません。
それでも、ルールは必要である
排除に反対することと、無秩序を支持することは同じではありません。
ここを曖昧にしてはなりません。
永住には明確な基準が必要です。
虚偽申請、不正、重大な法令違反を適切に扱うことも必要です。
税や社会保険制度を故意に免れる行為について、合理的な審査を行うことも必要でしょう。
日本語や制度について学ぶ機会を整えることにも意味があります。
しかし必要なのは、厳しさそのものではなく、公平さです。
何を満たせばよいのかが分かること。
審査が恣意的でないこと。
個々の生活事情が考慮されること。
障がい、病気、育児、介護、失業などによって不合理な不利益を受けないこと。
長年にわたる居住と社会への参加が正当に評価されること。
不許可になった場合にも、その理由が理解でき、適切な手続によって争えること。
そして何より、制度設計の前提に「外国人は公共の負担になるかもしれない」という疑念ではなく、「すでに共に社会を構成している人である」という認識があることです。
秩序と共生は対立しません。
むしろ、信頼できる秩序があるから共生できます。
しかし恐怖からつくられた秩序は、共生を壊します。
排外感情を政策の燃料にしてはならない
社会が不安になると、外国人は極めて便利な説明になります。
賃金が上がらない。
社会保障が不安だ。
治安が心配だ。
住宅が足りない。
文化が変わる。
その複雑な問題を、「外国人が増えたからだ」という一つの物語にまとめれば、話は簡単になります。
しかし、簡単な説明が正しい説明とは限りません。
政治がなすべきことは、人々の不安を嘲笑することでも、逆にその不安を増幅させて支持を集めることでもありません。
事実を示し、問題を切り分け、必要な政策を実行し、日本人と外国人を互いの競争相手にしないことです。
2026年6月、アングリカン・コミュニオンは世界的な移動と難民をめぐる声明の中で、人々を政治的な標語へと縮減し、恐怖や排除によって社会を分断する語りに抗する必要を明確にしました。そして移動する人々を、人格と尊厳を持つ存在として迎えるよう各地の教会に求めています。
難民と就労目的の外国人、永住申請者は同じ制度上のカテゴリーではありません。
しかし、一つの点では共通します。
人を「外から来た者」という属性だけで見ないことです。
これは日本キリスト聖公会が大切にしてきた姿勢とも一致します。私たちは、礼拝と社会への責任を切り離さず、社会的排除の中に置かれた人の尊厳に応答することを、信仰を生きることそのものとしてきました。
聖餐の食卓から国境を見る
聖公会の信仰は、抽象的な理念だけによって形成されません。
私たちは祈り、御言葉を聴き、同じ食卓に集います。
そこに、この問題を見るための深い手掛かりがあります。
聖餐において、一つのパンが裂かれます。
そこに集う人々は、同じではありません。
出身地も違います。
言葉も違います。
所得も違います。
社会的地位も違います。
政治的意見さえ違うでしょう。
しかし、一つのパンにあずかります。
これは「違いなど存在しない」ということではありません。
違ったままでも、同じ恵みに生かされ得るということです。
だから教会は、社会に対しても同じ問いを差し出します。
違う者が、違うまま共に生きられる社会を、私たちはつくれるのか。
共生とは、この問いから逃げないことです。
聖公会が大切にしてきた中道も、ここで意味を持ちます。
無制限な受け入れか、徹底した排除か。
外国人を無条件に善と見るか、危険な存在と見るか。
そんな二択に閉じ込められる必要はありません。
法を守りながら、人を守る。
秩序を維持しながら、尊厳を守る。
社会の負担を公平に分かち合いながら、弱くなった人を見捨てない。
違いを認めながら、一つの社会をつくる。
それが、中道を生きるということです。
中道とは、二つの極端な意見の算術平均ではありません。
正義と憐れみのどちらも捨てず、複雑な現実の中に踏みとどまることです。私たちがこれまで、小さな声の尊厳を守り、不正義に沈黙せず、社会的排除に応答することを教会の務めとしてきたのも、このためです。
「隣人」とは誰か
福音書で、「わたしの隣人とは誰ですか」と問われたイエスは、隣人となる資格の一覧表を示されませんでした。
国籍を尋ねませんでした。
所得証明を求めませんでした。
その土地に何年住んでいるかも尋ねませんでした。
傷ついている人の前で、誰が隣人になったかを問われました。
ここには、決定的な転換があります。
「誰なら私が助けるべき隣人なのか」という問いから、
「私は誰の隣人になるのか」という問いへの転換です。
外国人政策を考えるときにも、この転換が必要です。
どの外国人なら日本社会にふさわしいのか。
どの外国人なら十分に役に立つのか。
どの外国人なら将来負担にならないのか。
その問いだけを続ける社会は、自分自身を絶えず「選ぶ側」に置きます。
しかし福音は、私たち自身を問います。
この国で長く生き、働き、それでも不安定な身分に置かれている人に対して、私たちはどのような隣人なのか。
その問いから、教会は逃げることができません。
共生は慈善ではなく、正義である
外国人との共生を、「日本人が外国人に親切にしてあげること」と考えてはなりません。
それでは、いつまでも「主人」と「客人」の関係が残ります。
何十年暮らしても客。
税を納めても客。
子どもがこの国で育っても客。
社会を支えても客。
それは共生ではありません。
共生とは、同じ社会をつくる者として認め合うことです。
そしてこれは、一方的な善意ではありません。
外国人も義務を負います。
日本人も義務を負います。
国も責任を負います。
企業も責任を負います。
教会も責任を負います。
ともに生きるとは、互いに何も要求しないことではありません。
むしろ、互いに責任を引き受けることです。
だから共生には、日本語教育が必要です。
労働者の権利保護が必要です。
子どもの教育が必要です。
医療へのアクセスが必要です。
公平な雇用が必要です。
差別を許さない社会が必要です。
そして長くこの国で生きてきた人が、「ここで老いてもよい」と思える法的安定が必要です。
教会自身も「よそ者によって建てられた共同体」である
さらに、クリスチャンには忘れてはならないことがあります。
教会そのものが、国籍によって成立した共同体ではありません。
キリストの教会は、最初から境界を越えて広がりました。
異なる言葉を話す人々。
異なる民族。
異なる身分。
異なる土地の人々。
彼らが、同じキリストに結ばれて一つの民となりました。
教会の「公同性」とは、世界中に支部があるという程度の意味ではありません。
キリストにおいて、国籍より深いところで人間が結ばれ得るという告白です。
その教会が、国籍の違いによって人間を遠ざける言葉に無批判であるなら、自らが何を告白しているのかを問い直さなければなりません。
日本キリスト聖公会が目指してきた教会も、国境や制度の違いを超え、「ともに在る」ことを大切にし、社会の周縁や分断の中に立つことを自らの務めとしてきました。
だから外国人との共生は、私たちにとって外部の政治課題ではありません。
教会が教会であることに関わる問いです。
私たちが求めるもの
日本キリスト聖公会は、永住許可制度そのものを否定しません。
審査をなくせとも言いません。
しかし、その基準が、所得の高さや将来の経済的有用性へ過度に傾くことには反対します。
私たちが求めるのは、もっと厳しい制度でも、もっと緩い制度でもありません。
もっと人間を正確に見る制度です。
納税を見るなら、長年の納税も見る。
所得を見るなら、その人が置かれている労働環境も見る。
現在を見るなら、これまで日本で生きてきた年月も見る。
個人を見るなら、家族も見る。
義務を求めるなら、権利も保障する。
日本語能力を求めるなら、学ぶ機会も保障する。
社会への適応を求めるなら、社会の側にも受け入れる努力を求める。
そして、一時的に病み、失業し、老い、支援を必要とする可能性を、人間として当然に起こり得ることとして扱う。
それが共生です。
日本という社会が問われている
外国人政策は、外国人だけを試す制度ではありません。
それは日本社会自身を試しています。
人口が減るから外国人が必要なのか。
人手不足だから必要なのか。
経済成長のために必要なのか。
もちろん、それらも現実です。
しかし、それだけでは足りません。
人間を経済的な必要によって迎えた社会は、経済的な必要がなくなれば、その人を遠ざけることができてしまうからです。
私たちは、もっと深い理由によって共に生きなければなりません。
同じ人間だからです。
同じ社会に生きているからです。
互いに支えなければ生きられないからです。
そしてクリスチャンにとっては、さらに明確です。
その人も神によって造られ、神に知られ、神に愛されているからです。
排除ではなく、共に未来をつくる
日本はこれから、人口減少と高齢化の中で大きく変わっていきます。
昔と同じ社会をそのまま保存することはできません。
その変化を恐怖によって受け止めるのか。
それとも、新しい隣人とともに社会をつくり直す機会として受け止めるのか。
私たちは後者を選びます。
外国人を特別扱いせよということではありません。
外国人だけを優遇せよということでもありません。
日本人にも外国人にも、人間として同じ尊厳を見る社会を求めます。
ルールは必要です。
責任も必要です。
しかし、ルールの目的は、人を追い出すことではありません。
異なる人々が安心して共に暮らせる秩序をつくることです。
そして教会は、その秩序の中に慈しみがあるかを問い続けます。
働ける人だけを歓迎する社会ではなく、老いることのできる社会。
強い人だけを残す社会ではなく、弱くなっても居場所を失わない社会。
外国人を一時的な労働力として消費する社会ではなく、隣人として迎える社会。
国籍の違いを消すのではなく、その違いを越えて同じ食卓に着ける社会。
それが、私たちの願う共生です。
日本キリスト聖公会は、この問題について沈黙しません。
外国人だから守るのではありません。
人間だから、その尊厳を守ります。
そして私たち自身もまた、神の前では、土地も生命も恵みとして与えられた寄留者にすぎないことを忘れません。
この国に誰を住まわせるかという問いの前に、もっと根源的な問いがあります。
私たちは、神から与えられたこの場所で、どのような隣人として生きるのか。
日本の未来を決めるのは、外国人の数だけではありません。
異なる人と共に生きることのできる社会であるかどうかです。
排除は、社会を一時的に単純にします。
共生は、社会を複雑にします。
しかし福音が私たちを招いているのは、単純で安全な同質性ではありません。
違う者と出会い、責任を分かち合い、それでも同じ食卓に着くという、困難で豊かな交わりです。
教会は、その可能性を、この世界のただ中で先に生きるために存在しています。
「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」
(申命記10章19節・新共同訳)